日記(3)

2019年10月30日

 今日は、天気がよいので近くの公園へ歩いてむかって、途中のコンビニでポカリスエットを買い、西野七瀬のグラビア二誌に目を細めつつ目的地のベンチに腰掛け、『ひとはなぜ戦争をするのか』(アインシュタイン フロイト・講談社学術文庫・浅見昇吾訳)を数頁読み、デパートの書店を回り、かにクリームコロッケを食べてポカリスエットを飲み干し帰宅した。
 あいかわらず暢気な生活ではある。もう中年の独身なのでこれくらいしか楽しみがない。あほ坊ながらも道すがらは、共同体の暴力について考えていた。カフカは<ぼくは文学でしかない、しかもそれ以外のなにものでもありえないし、あろうとも思わない。>(モーリス・ブランショ『焔の文学』)と書き、佐々木中は<文学は広い。それはもっと広い。マルコやマタイのことを考えてみましょう。彼らは聖書を書いたのですね。読み書きが出来たわけです。正確に言えば、彼らの名を冠した文筆家の集団がいた。彼らは「われわれが文学と呼ぶもの」に携わる「われわれが文学と呼ぶ者」であったわけです。彼らがなしたこと、それは聖書を書くこと、すなわち法を書くこと、掟を書くことだったわけです。>(『切りとれ、あの祈る手を』)と述べる。文学とは国の法や宗教の教義のようなものでもあるわけだ。そして公園のベンチで読んでいた本でフロイトはこうアインシュタインに書き送る。<権利(法)と暴力、いまの人たちなら、この二つは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権利と暴力は密接に結びついているのです。権利(法)からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権利(法)が出てくるのです。>
 つまり、文学は法であり掟であり権利であり暴力である、とひとまずは言える。しかし自分は考える。ここでいう法や掟、権利や暴力はあくまで政治的経済的文脈での語法のようだ。たとえば法と掟に理性と良識、あるいはモラルと倫理観を対照させたらどうか。そう共同体の暴力、戦争・内戦・テロ・殺人などを政治的経済的に解決しようとするのが法であり掟であるのなら、理性や良識、モラルや倫理観は、文化的創造的にそれらの問題を解決するあるいは考える方途である。そしてそれこそが膠着化した支配層の法や掟を根底からひっくり返す力となるのだ。
 このことはどうやらフロイトも先の書簡で考察を進めているようなので、夜半にかけ同書を読んでいきたい。

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