実存の発見(1)

第一信 クンデラ、デカルト、オオエ
                       2019年10月20日

 クラシックとグラムロックを優雅に聴いていたきょうの午後。僕はふとブログをまた始めてみようと思った。それも最高学府から逃走した最大要因となった「哲学」に素人裸足でまた立ち向かおう、なんて考えたわけである。
 タイトルは「実存の発見」とした。これは、ミラン・クンデラ『小説の技法』(岩波文庫・西永良成訳)からの言葉である。

 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。
                      (『小説の技法』14頁)

 僕は、Twitterや「生存系読書会」、「生存書簡」などでつねづね、どんな悪しき言説、存在にも価値があり肯定されるべきであるとの立場を取ってきた。それはこの「実存の発見」の端緒が、混沌としたその生活世界に漂い生起していると考えたからだ。
 だが柄谷行人『探究Ⅰ』(講談社学術文庫)の影響から手に取ったルネ・デカルト『方法序説』(岩波文庫・谷川多佳子訳)を読み、大学時代に学んだイマヌエル・カントの格率(ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律)とクロスオーバーして、自分の偏狭な主張が、拙い世迷い言だと気づいた。

ー理性すなわち良識が、わたしたちを人間たらしめ、動物から区別する唯一のものであるだけに、各人のうちに完全に具わっていると思いたいし、その点で哲学者たちに共通の意見に従いたいからだ。哲学者たちによれば、理性の多い少ないは、同じ「種」における「個体」の、「形相」すなわち本性によるのではなく、「偶有性」どうしのあいだにあるだけである。
                        (『方法序説』9頁)

「理性・良識の有無は本性ではなく偶有性のあいだにあるだけ」この定義は、カントの格率とは相反するものだ。ちなみに、デカルトは1596年生であり、カントは1724年生だ。偶然の理性と必然の理性。翻って脆弱極まりない僕の定義を参照してみよう。それには「理性・良識」の観念が欠落している。なんでもあり、なぐりあいのネット空間みたいなものだ。そこではやはり、偶然・必然を問わず理性・良識が必要となるのだろう。
 
 三・一一以後、すぐにドイツは「原発利用に倫理的根拠はない」として、国の方向転換を始めました。わが国でいま、「倫理的」「モラル」という言葉はあまり使われませんが、ドイツの政治家たちは、次の世代が生き延びることを妨げない・かれらが生きてゆける環境をなくさないことが、人間の根本の倫理だ、と定義しています。この国の政権が、その行動の根拠に、政治的、経済的なものしか置いていないのと対比してください。
 もう老年の私の思い出すことですが、生まれて初めての大きい危機に面と向かったのは、一九四五年の敗戦においてです。四国の山村まで米軍のジープが来ました。食糧難も、生活の困難も、母子家庭の十歳の私にはよくわかっていました。それが二年後、新しい憲法が施行されて、村は沸き立つようであったのです。
 私は「すべて国民は、個人として尊重される」という第十三条に、自分の生き方を教えられた気持でした。あれから六十六年、それを原理として生きてきた、と思います。
 もう残された日々は短いのですが、次の世代が生き延びうる世界を残す、そのことを倫理的根拠としてやってゆくつもりです。それを自覚し直すために、「原発ゼロ」へのデモに加わります。しっかり歩きましょう!
               (大江健三郎『晩年様式集』講談社文庫)

 天上の星は季節によって巡り回る。つまりはカントのいう道徳律も変転するのだ。われわれには、新しい理性・良識が求められている。この笑って人を殺す国で生きるためには。

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