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高橋源一郎と阿部和重の未来

来夏刊行予定の新書の準備を進めている。初単著なので要領を得ない。とはいえ同人誌だから気楽なものだ。今日は第一章の冒頭に追記した。勢い任せの文章になった。後日精査しよう。

ダブリンに生まれ、ヨーロッパを流浪したジェイムズ・ジョイスは「失郷者」だという。企業城下町の豊田に生まれ、東京で挫折した私は同人サークルの初めての文章を「失郷者たち」と銘打った。郷土愛を抱けず、恋人を持てず、甲斐性なしの私にうってつけの名づけだと思った。しかるに「失郷」の刻印は私個人に限らない。たとえば戦後民主主義を高らかに謳う大江健三郎ですら、絓秀実の見立てでは故郷を喪失している。この諦観は三島由紀夫ひいては夏目漱石にも遡ることができよう。日本に祖国はありしや。
 本書では、あるときはサブカルと貶められ、またあるときはメインカルチャーの簒奪者として称揚されるアニメを直接的に語る。なぜアニメなのか? それには「失郷者」が大きく関与していると思う。端的にいえば私は今日のアニメに想像の故郷を見るのだ。けして民族的な郷愁ではない。ゼーバルトのように記憶的な郷愁だろう。ゆえにできるだけ幼年少期のアニメの記憶を掘り下げる行為から始めよう。
 
今年で48歳になる。最近夢を見ない。斎藤環によると危険な徴候らしい。自分は生粋の「家の馬鹿息子」だ。ゆえに29歳まで学生だった(昨年再編入学したが体調不良で退学した)。学生時代に読んだ本はいまでも財産である。べつにそれで経済的な利益を得ているわけではない。ただ精神的な柱のようなものは担保されたように思う。とはいえぐらぐらな自己意識にすぎない。19歳のころ実家の二階で高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』の単行本を熱中して読んだ記憶がある。1994年だ。「ペンギン村に陽は落ちて──後編」で則巻千兵衛博士の欲望や栗頭の「もの忘れ」に瞠目した。小説の虚構性に酔いしれた。1992年の筒井康隆『朝のガスパール』を朝日新聞朝刊の連載で読んだときもメタフィクションのリアルさのようなものに惹かれた(この時期については春刊行予定の同人誌で書く)。私は年少のころにボードゲームやゲームブック、ファミコン、TRPGで実存を体験した世代だ。弊サークルの名称にゲーム由来の名づけが多いのはそういうわけである。その虚構性のピークは高橋の『ゴーストバスターズ─冒険小説─』だろう。「群像」増刊号に一部が掲載されて1996年ごろに読んだ。1997年に単行本として刊行された。夏の東京で貪るように読んだ。同じころ阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読んだ。現代日本文学のイメージが変わった。『すばる』(1997年10月号)で高橋と阿部の対談「あたらしいぞ私達は。」が掲載された。夢中で読んだ。デビューするなら集英社だと思った。『波』1996年1月号から連載開始の『ゴヂラ』が2001年12月に新潮社で単行本になった。『日本文学盛衰史』は2001年5月刊行。当時日大生の私は岩波ブックセンターで業界人たちの高橋の噂話を立ち聞きした。高橋の小説を最後に読んだのは10年以上前の『さよならクリストファー・ロビン』(2012)だ。最近は対談や新聞連載を追っていた。高橋は筒井と同様に渡部直己と絓秀実に痛烈に批判された。村上春樹のように。こんなことから現代日本文学はイキリ大学生に読まれなくなったのだろうか。私は古井由吉や後藤明生でイキリちらかす相手もおらず絶望していた。「現代日本文学」とは何だろう。アニメの本を書く根底の疑問である。
高橋と阿部は私にとって重要な作家だ。だが二人の間には現実と虚構へのスタンスの違いがある。それはもしかしたら現代日本文学の断層ではないかと思う。『涼宮ハルヒの憂鬱』で映された阿部の『グランド・フィナーレ』と綿矢りさ『蹴りたい背中』のただならぬ関係よりこの断層は深いだろう。

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