天使の写真(抄)

 1

 僕は鋭く尖った小石を、あたう限りの力で女に投げつけた。憐れみをかけることもなく頭に命中したその投石は、首をガクリと傾げた女になんの反応も起こさなかった。僕はがっかりして、用意していた数個の小石を地面に落とした。野良犬が、動かなくなった女に何度か吠えた。
 町はずれの処刑場の参加者たちは、とっくに興味を失って誰もいなくなっていた。行刑官が囲いの中に入って、壁から鎖で垂れ下がった手枷を外し、目隠しを取って女の身なりを整えだした。周囲のガス燈に照らしだされている女は、明らかにもう息絶えていた。
 僕は連れのイリが一石も投じず、泣くのを必死で堪えながらさきに帰ってしまったことを悔しく思った。あれだけふたりで懲らしめてやろうと約束したのに。ほんとうに意気地のない奴だ。ネルかガバンを誘ったほうがよかった。僕は、行刑官によって川のさらし場へずるずる引きずられてゆく血塗れの女を一瞥してから、くるりと家のほうへ向きを変えた。
 首切り、火炙り、百叩き、水攻め、磔獄門、いままでこの処刑場でいろいろ見物してきたが、ザグレの住人なら誰でも参加できる石投げの刑をやったのは僕にとって初めての経験だった。
 そうはいっても、充分に参戦できたとは胸を張ってはいえない。なぜなら、刑が執行される以前から、僕のまえに陣取っていたのは大柄な大人たちで、遅れて到着した僕の小さな背丈では、とてもその後ろから罪人めがけて石を放つのは無理だったからだ。ゆえに僕が満足に石投げの刑ができたのは、すでに女が泣き叫ぶのをやめ、虫の息で死にかけているありさまになり、大人たちがさすがに気を咎めて散ってゆくなか、ここぞのばかりに躍りでたときなのだ。
 しかし、最後に残った僕が、女にとどめを刺したわけでもない。女は舌を噛みちぎって、その舌を飲み込んだのち窒息死した。僕はそれが我慢ならない。自分の投げつける石礫で罪人を殺したかった。僕は女の罪名を知らなかった。罪状の貼り紙の字が読めなかったのだ。それでも僕は女を憎んでいた。心の底から女が悪人だと信じて疑わなかった。
 僕はまとわりついてくる野良犬を振り払い、等間隔に立ち並ぶガス燈の下、もの淋しい口笛を吹き、影法師が伸びたり縮んだりするのを見ながら、石畳の街路地をひとりで家に帰っていった。
 翌日、僕は仲間といっしょに広場にいた。すみのほうに、陽光に照らされた牛の腐乱した死骸が転がっていた。蠅や蛆虫が集っている。僕たちは牛から離れ、三人で囲んで詰問しているイリの大げさな反応を楽しんでいた。
 弱虫だな、おまえ。いや、おまえは蛆虫だ。あたしは蛆虫です、といってみろよ。
 そうだ、そうだ。きさまはタスラだ。マジで、あのタスラの野郎にそっくりだぜ、こいつ。
 吐き気がするんだよ。おまえの顔。ほんと蛆虫みたいだな。さあ、いってみろよ。あたしは蛆虫です。あたしの家族はみんな蛆虫ですってな。ほらほら、泣いているんじゃねえぞ。ますます蛆虫に見えるだろうが。気持ち悪いんだよ、こら!
 なあ、こいつをあの牡牛さんに乗っけてあげようぜ。
 そりゃあ、いい考えだ!
 さあさあ、ガバン様がお慈悲でおまえみたいな腰抜けをやんごとないあの牛車に乗せてくれるってよ。ありがたく思いな。おらおら、立った、立った。いつまで泣いてんだよ。糞ったれの成金野郎め!
 はやく、はやく。こっちこっち。
 まてまて。そうせかすなよ、ネルちゃん。
 まてねえよ。もうまてねえって! おいらの頭のなかでは完全にできあがってんのよ。決定的瞬間がよお。死んじまったゾーイにも見せてやりたかったぜ。
 え? 誰それ。
 あ?
 そのゾーイってやつ。
 は! 知らねえのおまえ。あいつだって、きのうおまえが殺った!
 おお、そうなんだ。ゾーイっていうのあの女。男みたいな名前だ。
 なにも知らないんだな、おまえ。それは筆名だよ。あいつが詩人だったこともまさかご存じないの?
 おお、詩人だっての。詩人ってあの詩人? 吟遊詩人みたいな。
 おまえ何時代の人間だよ! 例の〈青い詩人〉の仲間なんだよ。
 あ、〈青い詩人〉?
 おまえさあ。
 おい、まて。おい、やめろ!
 逃げる気か。おい、ブリノ! 捕まえろって!
 あー。
 あーあ。
 たくっ。おまえら、なにやってんだ! 逃げられちまったよ。
 追いかけるか? イリのやつ足遅せいぞ。
 あー、いいじゃない。
 なにがいいんだよ、ブリノ!
 だって、あいつさ、父親が死んでるし、あんまりやりすぎるのもかわいそうだよな。
 え? マジでいってるの。あのブリノ様が、こいつは驚きでさあ。
 なんだ、なんだ。天変地異の前触れかあ!
 いいよ、いいよ。あんな臆病者ほっとけばいいんだ。それよりか、その〈青い詩人〉についてもっと詳しく教えてくれないか。
 え。おいらもそんなには知らないんだよ。うちのおやじが、よく〈青い詩人〉をこきおろしているのを聞いているくらいでさ。
 そうなのか。おれの家じゃ、そんな話したことないけど。
 あはは。そりゃお、エリオ婆さんなら、そんなこといわないだろうさ。
 そうなのか。ガバンは知っていたの?
 あ。ああ、〈青い詩人〉のこと? そりゃあ、さいきん悪さしている大悪党だかんな。噂くらいは常識として知ってるさ。
 おお。聞かせてくれよ。その常識とやらを。
 ええ? つまりだな、〈青い詩人〉ってやつらはだな。つまりその、なんというか、いわゆるひとつの、えーと、えーと。とにかく大悪党なんだよ!
 なんだそれ。なんにも知らないのといっしょじゃんか。
 はあ? おまえがいうか! おまえのほうがなんにも知らないんだろうが、アホ!
 なんだとお! おい面かせや。
 おお。やるか、やってやろうじゃんか!
 やめろ、やめろ、おふたりさん。〈青い詩人〉はタスラの手下なんだよ! これでこの話はもうおしまい、おしまい。さてと、じゃなんだ、いまから俺のうちに遊びにこないか。うまいソーダ水をお袋が作ってくれるんだよ。
 おやおや、またソーダ水ですかあ。
 はあ? まえ飲んだのはいっつかのことだろう。そんなこというならガバン、おまえはこなくていいぞ。
 いやいや、ネル総統! あいすいません。あっしは一生ネル様に仕える従者でございますだ。どうか哀れなるあっしをネル様のお屋敷まで連れていってくださいまし。
 もういいよ、おまえら。勝手に馬鹿やってろ! 俺はちょっと用事を思いだしたから抜けるな。
 なんだよ、急用か? またエリオの婆さんの言いつけを忘れてたのか?
 まあ、そんなとこだよ、ネル。じゃあな、ガバン、あんまり飲み過ぎるなよ。ネルの妹の分もちゃんと残しとくようにな!
 ああ。わかってる、わかってる。
 広場のすみでは、いつのまにか、牛の死骸を片づける雑役夫たちが荷車を脇に停め、静かに作業を進めていた。

 
 2

 イルオはこわばった身体の筋を伸ばし、キャスター付きの椅子を引いた。ベッドのヘッドボードに肘かけが軽く当たり、乾いた音を部屋に響かせた。ベッドサイドの孔雀草の鉢植えを慌てて見た。この程度の揺れでは大事ない。きょうこの部屋では、朝はラジオ体操を流し、昼はトークバラエティをかけっぱなしで、夜のナイター中継は完封試合で定時に終わり、そのあと静寂が続いていた。
 勢いをつけ大きく椅子を引きすぎた。それだけ注意散漫になり疲れていた。いつもはもっと慎重に引く。いやまて、そんなことは意識せずとも、ベッドに当たるほど大幅に椅子を引くことはいままでにない。この椅子を買ったのはつい半月前のことだからたいした統計ではないが、かなりの回数椅子を毎日毎日必ず何度も何度も引いてきたわけだから、なぜきょうにそれもこの時間に椅子とベッドが、正確には肘かけもっと厳密には左の肘かけとベッドボードがぶつかり、ほんの微かな音と揺れを引き起こしたのか。イルオはこの偶然は必然なのかどうか、孔雀草の鉢植えのことなどもう心配の種ではなく、沈思黙考した。
 夜は更けるばかりで部屋に冷気が漂い、イルオは溜まらずに暖房をつけた。イルオの頭は熱い。酒と煙草はもうやめているから、いまみたいな深夜には手持ちぶさたになるので、いつも思考が過敏になる。酒と煙草に溺れ、深夜徘徊していたころが懐かしい。この近所には、夜はひとっこひとりいない公園がその当時はいくつかあったから、そこのベンチや土手に座って、不良文学に被れて未成年の分際で、低ニコチンの煙草を吹かし、ウィスキーを呷った。その程度のかわいい悪さをよくもまあ懲りずに繰り返したものだ。
 だがそれは、ある出来事がきっかけでやめることになった。簡単な話、父にその悪さを目撃されたのだ。怒られなかった。父はイルオのまえから無言で去っていった。なぜそんな深夜に父が公園にいたのか。それは夜な夜な外出を繰り返していたイルオを、こっそりつけてきたとしか考えられない。偶然、父がそこで誰ぞやと密会の約束をしていたとか、薬の売買をする手はずだったとか、そんな可能性は微塵もないだろう。
 その公園は、イルオが小学生時代、父に自転車の乗り方を教わった場所だった。父はその二年後、犬と散歩中、自動車事故に巻き込まれて亡くなった。犬ともに即死だった。だがこのことは家族のなかでイルオにだけ、ある期間伏されていた。父は病気で急死したと告げられた。幸い、父の遺体に外傷はなかった。犬は妹のイリと散歩中、リードが切れてそのままどこかへ逃げてしまったと告げられた。イルオは、表面上はなんの疑いもなく信じる振りをした。なぜ母とイリがそんな隠蔽工作を施したのか。ひょんなことから真実が明るみに出たとき、イルオはその疑問を尋ねもしなかった。葬儀に親戚を呼ばなかったことは、当時から不信に思っていた。イルオは黙々と日々を過ごし、寡黙を装った。内心激しく動揺していた。なんといっていいか判らない。怒るのも嘆くもの泣くのもなじるのも変だと思った。感情は逆巻いた。いま思いだしても心臓の拍動を感じる。
 さて、イルオは立ち上がった。この部屋を出たかった。この家からも出たかった。いつだって出ていってよかった。いまはどうせ春休みだから、差し迫った問題にはならないし、蓄えは自分の口座にまとまった額としてあった。いまの時間では、手数料の数枚の硬貨はいるだろうが、夜間銀行で貯金は引きださせる。夜汽車はもう止まっているが、夜営の馬車で町中に出れば、汽車が動く時間まで寒さを凌げる深夜営業の施設は見つかるだろう。どうせ誰も咎めない。高齢の母は高鼾をかいて眠っているし、休みなのにイリは寄宿舎から帰ってきていない。止めるものはいない。この家に縛られているのは、イルオには似合わない。物心ついたころから、そういう自覚があった。確信に近いものは、幼稚園児の段階からあった。
 イルオは家出をする。春の初めの深夜三時に。腕時計をはめる。部屋着の上からダッフルコートだけ羽織って、ジャージのズボンをブラックジーンズに履き替えた。財布をヒップポケットに突っ込み、小型通信機をショルダーバッグのサイドポケットに滑り込ませた。部屋の明かりも消さずにさっさと玄関にいき、カットブーツを履いた。そして鍵を閉めず鍵も持たず、走るわけでもないがゆっくり歩くわけでもない、大股の早足で庭を横切った。門を潜るころには息せききって、イルオは哄笑に浸りながら走りはじめていた。
 空には、瞬く満天の星空のなかに月が照っていた。僕が植物園の門を乗り越えると、道の左右には樹木が鬱蒼と茂り、そのさきに大きな池があった。水面には幻想的な霧がかかり、梟のあの独特な鳴き声が響き渡っていた。僕は疲れて、ごつごつした地べたに座った。冷たかった。小石を拾って、池の手前に投げ入れた。小石が水面を打つ音は、梟の羽ばたく羽音でかき消え、波紋は霧で見えない。夜明けまで、まだ時間がある。
 ふと顔を上げると、茶髪でセミロングの制服の女が、イルオの前に無防備な後ろ姿を晒していた。イルオは、その肉厚な臀部を穴の開くほど凝視して満足を得た。そして、合板の粗末なテーブルに置かれ、湯気を上げているミートパイに視線を落とした。次にイルオは、テーブルのすみの長方形の底の浅い容器から、フォークとナイフを摘みだした。右手にフォーク、左手にナイフを握って、上気した頬を綻ばせ、高カロリーの夜食をさっさと片づけた。ヒップポケットの財布は、卸したての紙幣の厚みで、パンパンに膨れ上がっていた。さきの女性店員のことで、ブラックジーンズの下も膨張していた。この金で女を買うのもありだな、とイルオは淫らな妄想に耽り、ナプキンで汚れた口元をゆっくりと拭った。
 とぼとぼと池の畔を歩いた。月に照らされた霧の水面は、氷が張ったように真っ白に輝いていた。梟の鳴き声は、もう聞こえない。僕は眠たくなってきた。いまから家に帰っても玄関には鍵がかかっていて、中に入ることはできないだろう。エリオ婆さんは用心深いから。婆さんは、僕がたびたび夜通し帰らないことがあっても、なんの心配もせず、小言のひとつもいわなかった。それは血が繋がっていないから、薄情なわけではない。婆さんは、少々抜けてきているのだ。いつのころやら、自分の身の回りのことにしか気を遣わなくなってきている。料理もひとり分しか作らないこともあるほどだ。僕は、そんな家にあまり居着かなくなってきた。三日に一度は、家を空ける始末だ。もうどこか遠くに消えてしまいたい。僕は、さいきんそう考える。あるいは、エリオ婆さんのいない家を想像する。自分ひとりっきりで、あの家で生活していることを空想する。僕は、そんなとき、とてもやるせない気がする。自分まで消えてしまい。そして、あの家にひとっこひとりいないことに思いを馳せる。それがいちばん家にとっていいことなのではないか。僕とエリオ婆さんは、もう終わったほうが、あの家のためなんじゃないか。家とは、そもそも誰かのためにあるものだが、それは父さんと母さんのためのものだったわけで、僕とエリオ婆さんは、あの家に住む資格をとっくのむかしに失効している居候なんだ。もうふたりして、あの家を出たほうがいい。でも婆さんが家を出るはずがない。婆さんはほっとけば、そのうち骨になるしかない。問題は僕だ。僕は腹が減れば盗みを働くだろうし、どんな汚い手段を講じても、生き延びてしまうだろう。そんなことでは、あの家まで汚れっちまう。父さんと母さんのあの家が、汚されてしまう。だからもう僕は家には帰らない。帰れないんだ。僕はそんなことに思いを巡らせながら、池をぐるっと一周していた。僕は小さな溜息を何度も吐いて、閉園中の植物園を出た。
 起床時刻の二時間前。共同部屋のすみっこで、木の実と枝、白布、麻縄で拵えた呪いの人形に、スタンドの首を極端に下方に曲げて光を当て、仔細に眺めるイリがいた。イリの口元は、引きつっていた。涎まで垂れてきた。小刻みに震えながら、笑いを噛み殺す。いったい誰を呪おうとするのか。いじめっ子たちのブリノ、ネル、ガバンか? それとも兄のイルオか? はたまた老母か? いや寄宿舎の級友、教師なのだろうか。イリの奇行にルームメイトは寝たままで誰も気づいていないように見受けられる。狸寝入りをしている生徒はいない。深々とした夜が明けようとしている。僕は、湖底で眠る夢を見ている。そう僕は町に出て、ミートパイを食べ終わり、便所でマスを掻いているイルオの席と向かい合いの席にさっきから座り、注文もそこそこに頭を腕で抱えるように寝入ってしまったのだ。その手にはきのう、学園の図書館でメモした紙切れが握られていた。
 イルオが何食わぬ顔で便所から出てきた。僕とは面識があるが、イルオはそれに気づかずに伝票をさらりと手に取り、レジへ向かう。支払いをさっさと済まし、彼は始発列車で南西にいこうとしていた。イルオが両開きドアを押して、レストランから肌寒い野外に出る。町は朝日で活気づいていた。馬車が往来し、人々は足早に己の目的地にそれぞれ向かっている。イルオもそれに倣い、駅舎へと向かった。


 3

 熱々のグラタンをでっぷりとした男性店員が運んできて、僕の寝ているテーブルの上にぞんざいに置いた。その衝撃で僕は飛び起き、思わず手にしていた紙切れを力強く握りしめてしまった。紙はしわくちゃになったが、濃い鉛筆で走り書きされた文字は読むことができた。そこにはこう書かれていた。

<△日午後3時20分ごろ、ザグレ市内のS公園付近で、ゾーイ・マルティン氏とその飼い犬一匹が、走行中の車に轢き殺される事案が発生。加害者は、目撃者の証言により軽自動車に乗った女だと当局は断定し、事故と事件の両面で捜査に当たっている。>

 僕は寝たりない気だるさから、なにもかも意欲を失っていた。このままグラタンには口をつけず、家に帰ろうかとさえ思った。しかし、このメモを再度、ぼうとした頭で時間をかけ確認してみると、腹が減っては戦はできぬと、まだまだ余熱で膨らみきっているグラタンをあっというまに平らげ、急いで外へ出た。
 その直後、ものすごい衝撃が町を襲った。僕は、即座に身を屈め、刹那のうちに大地震かミサイルが落ちたかと思った。眩い朝日に目を細めて、上空にもくもくと立ち上る黒煙を見た。群衆が駅舎のほうに群がっていた。彼も釣られるように覚束ない足取りでみなのあとを追った。きのうの処刑場とは桁違いの数の野次馬たちが、口々に叫び、喚き、神に祈りを捧げていた。新聞記者やテレビクルーらが、我先にと救急隊員や警官のあとについて、駅構内になだれ込んでゆく。僕ら一般の野次馬たちは、機動隊員にロックアウトされた。僕は誰彼構わず、いったい駅でなにが起きたのかを尋ねて回った。
 首を振るもの。
 聞き返すもの。
 怒鳴り返すもの。
 唾を飛ばして意味不明な声を上げるもの。
 物乞いするもの。
 逃げだすもの。
 酒を勧めるもの。
 笑うもの。
 泣くもの。
 震えてうずくまるもの。
 そしてひとりの少女がこういった。
 爆弾だよ。ドーンって汽車が爆発して、みんな黒こげだってさ!
 僕は吐き気を催し、小陰に急いで、さきほど食べたグラタンをすべて吐いた。眩暈を堪えつつ、掌を見ると、あの図書館のメモ書きがどこかへ消えていた。捜す気は起きなかった。早く家に帰りたかった。そして眠って、起きて、それからイリに会いたかった。僕がおまえの父さんの敵を討ってやったといってやりたかった。いやはや、これは僕の妄想なんだろう。それは判っている。ただのコジツケだ。でもいってやりたかった。いって抱きしめてやりたかった。僕は駆けだした。背後で再度、爆発が起きた。僕は振り返らなかった。野太い防災サイレンが鳴り響いた。間延びした女の声で、緊急アナウンスが市中にこだました。
 非常事態宣言! 非常事態宣言! 戒厳令が発令されました。すべての市民は自宅に戻り、鍵を閉め、絶対に外出しないでください! これは市長からの市民への行政指令です。これに従わないものは誰であっても強制執行の対象になります。繰り返しお伝えします。ただいま戒厳令が発令されました。市民の皆様は直ちに自宅にお帰りください。なお、鉄道は全線不通ですので、お気をつけください。繰り返しお願い申しあげます、繰り返しお願い申しあげます。
 僕は走りながら笑っていた。〈青い詩人〉だ! もっとやれ。いいぞ、いいぞ。その調子だ! いたるところで爆発音が続いていた。地鳴りと黒煙のなかを僕は疾走した。もうエリオ婆さんの家に帰って、仮眠している暇はない。死が迫っている。このまま直接、寄宿舎へ急ごう。僕はくるりと向きを変え、爆風轟く反対の道を突き進んだ。がむしゃらに、めくらめっぽうに、走るしかなかった。祭りだった。寄宿舎がどこにあるのかなんて、もう誰にも判らなかった。町は灰燼と化していた。そこいら中に、黒こげた熱々の死骸が山積していた。僕は吠えた。イリの名を叫んだ。爆音はもうしなかった。強烈な悪臭が町を覆っていた。死体の焼ける臭いだった。僕の靴は脱げていた。足の裏が焼けるように熱かった。全身真っ黒なことに気づいた。頭が熱かった。頭から血が滴っているようだった。目が霞んできた。喉が無性に渇いた。これは死ぬなと思った。もう死んでいるんじゃないかとさえ思った。そのうちなにも考えられなくなった。ただ足は動いた。走っていた。ただ走っていた。どこを走っているかは判らなかった。ここが故郷の町なのか、いつか読んだ物語のなかなのか判らなかった。現実が判らないことだけは、考えることができた。ブリノという名は忘れていた。イリという名も忘れていた。人間であることも忘れていた。ただ走った。獲物を追うかのごとく、もしくは狩人から逃れる脱兎のごとく走った。速かった。まえより速かった。ものすごいスピードだった。止まる気がしなかった。いや止まれなかった。止まることを忘れてしまった。なにもかもを忘れてしまった。死んだと思った。死を思った。楽になった。もう走らなくていいと思った。幸せだった。充足感が満ちあふれてきた。黒煙が消えた。悪臭が消えた。死骸の山が消えた。山が消えた。川が消えた。空が消えた。大地が消えた。僕が消えた。君が消えた。世界が消えた。死が消えた。石を持っていた。ただ手に石を掴んでいた。投げるわけでも落とすわけでもなく、ただ石の重さを感じていた。石になったと思った。思いは消えなかった。思いは重さだった。重さだけがあった。重さだけを感じた。生きていると思った。石になった。微細な石になった。軽かった。砕けた。石は砕けた。宇宙は砕けた。思いは砕けた。重さは砕けた。この文字も砕けた。
 すべては、春の初めの出来事だった。ひとつの町が一日で壊滅的被害を受けたニュースは、世界を一瞬で駆け巡った。ニュースキャスターたちは、口々にタスラの仕業だと報じた。イリの呪い人形のことは、誰の口からも上らなかった。ただある局のアナウンサーは、どことなくイリに似ていた。そのアナウンサーは、なんの意見も述べず、なぜか笑いを噛み殺すかのようにニュース原稿を読んでいるふうにみえた。ごった返す隣町の街頭テレビの前で、イルオはひとり周囲とは違う混乱をきたしていた。
 この凄惨な事件は、〈春の血〉と呼ばれることになった。

(2020)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?