日記(8/24)

 昨日は夕方に起きてしまったから日を跨いで朝方寝ることになりそうなので時間潰しに毎度のブログを書くことにした。金土日と3日間外出しなかった。それで別段やることもない。成果といえば短篇を1本仕上げたことぐらいだ。あとは憂さ払しに本を後先考えずにポチポチと注文してしまう。スーザン・ソンタグ『写真論』、オルハン・パムク『父のトランク』など。コロナを言い訳に就業の目処さえ立っておらずこんな調子でやっていけるのだろうか。本来なら来年あたりにはアルバイトをするつもりだったが勤労意欲が失われつつある。やりくりが続く。「そもそも知識人(intellectuals)とは、どのような存在なのか。大規模な集団なのか、それとも小規模なえり抜かれた人間たちからなる集団なのか」(『知識人とは何か』エドワード・W・サイード、平凡社ライブラリー)。僕は長らく一人の友人と兄とで同人誌活動をしてきた。初期から大見得切ってデカいことを標榜していたものだが、いろいろあって小規模にやってきたつもりだ。それが2014年からの他サークルとの交流を通じ、同人誌ながら規模を拡大している。僕の元来の性質もあり即時的ともいえる繋がりが増している昨今であるが、ここで今後について考えをつらつら書いておきたい。それというのも柄谷行人の自省録めいたインタビュー集『政治と思想 1960-2011』(平凡社ライブラリー)をいま読んでいる最中だからである。文中に「レーニン主義的党(少数精鋭の前衛党)」とある。ここから柄谷は離脱して文学の道を歩むことになる。僕も昨年の『前衛アンソロジー』の件で「前衛党」について百科事典を調べたり、『大失敗』創刊号の「巻頭言」で前衛党を批判する吉本隆明「大衆の原像」という概念を知ったりした。さらに柄谷は1968年のパリ五月革命でのスローガン「想像力が権力をとる」を引き合いに出して、文学の優位性を語る。哲学と政治には文学の力がいる。ハイデガー、デリダもそうだったと柄谷はいう。そのようなテクスト的観念論と「近代の超克」は親和性があるとする。しかしこのような所謂ポストモダンを柄谷は批判する。ドゥルーズもポストモダンには批判的だ。これは蓮實ゼミナールや保坂スクールのような党派的な括りに対しての批判的言説とは違う。もっと根源的な疑いだろう。集団性や思想の連帯みたいな論点ではない。文学は内向的になりがちだ。「文学は「文学的」ではない。文学には、才能と同時に労働が必要だ。才能と同時に、こつこつやる必要がある」(『政治と思想』)。柄谷はさらに「文学をやるのなら、根本的にやらないといけない」という。僕が自我に芽生えたころの1991年に柄谷は『批評空間』を浅田彰らと始める。だから僕の柄谷像は編集者だ。それだから僕はいまでも同人誌をやっているかもしれない。といっても『批評空間』は編集後記と『プラスティック・ソウル』ぐらいしか読んでないけど。

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