『REBOX4』 序文(第二稿)

特集:ファウスト系

セカイの分裂を見つめて

沖鳥灯

 本誌はゼロ年代に過熱した〈セカイ系文学〉いわゆる〈ファウスト系〉を再発見するために刊行される。人口に膾炙したアニメによる〈セカイ系〉のイメージと〈セカイ系文学〉は明らかに異なる。ゼロ年代という90年代と地続きな史観によって生まれた〈セカイ系文学〉はJ文学と親和性が高い。〈セカイ系〉の隆盛と「時代」は切っても切り離せないだろう。90年代の冷戦終結、湾岸戦争、バブル崩壊、震災、オウムで日本の転落は起きた。21世紀は9・11に端を発するアメリカの凋落、3・11以後のポリティカル・コレクトネスや自己実現の台頭、さらに感染症の世界的蔓延および北の大地での国家間紛争により、世界秩序は塗り替えられつつある。2022年の現在において世界の勢力範囲は分裂から分断へと移り変わっている。本誌は分断からもういちど分裂を見つめ直すために、過去の文学ムーヴメント〈ファウスト系〉の再定義を目指すものだ。激動の時代、文学の世界ではいま何が起きているのか? それを見定めるにはノスタルジーではない〈小さな過去〉の積み重ねによる個別の歴史を構想する試みが求められるのではないか。文学を定義することは時代の精神を捉え直すことだろう。21世紀とは何なのか。今世紀に生きる人々のアイデンティティの実在は可能か。その手がかりを〈ファウスト系〉に見出したい。些末で無力な行為であったとしても、あの時代を生きたもの、あの時代を考えるもの、いまの時代を生きるもの、時代の途上で死んでいったものと共に、つねにすでに〈小さな過去〉は反復する。
「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」
 
 日常は退屈だ。画一的な学校教育が先鋭化する中学生活に僕は吐き気を催した。頭髪管理、詰襟学生服、部活動強制、内申点などブラック校則は僕が中学時代の1988年~1990年にも存在した。学生運動の熱気はとうの昔にシラケて、高度経済成長後の校内暴力が一段落した「踊り場」のような時代に生きた僕には、新たな脅威「退屈な日常」がのしかかっていた。
 抑圧・管理・監視の小さな社会=学校。僕はそれをボイコットすることで読書に出会った。読書とは反権力だ。「反体制はカネになる」とヒース&ポッターはいう。彼らはもともと反権力は差異化のゲームによってカネを生み出すと主張した。とはいえ一般的には「反体制」が権力を奪取したとき反権力は転向して「カネになる」のだろう。「造反有理」「革命無罪」を掲げて中華人民共和国を建国した毛沢東は読書の人だった。毛は晩年に酒池肉林に溺れたという。フランス革命では革命の指導者ロベスピエールは革命後に恐怖政治を敷いた。それは諸外国の外圧のためだったという見方もできよう。反権力は権力を保持しようとすると内外の反発をまねき腐敗してしまう。党派的・政党的な政治体制に根本的な構造上の欠陥があるからではないだろうか。サルトルは『いまこそ、希望を』(レヴィとの共著・光文社古典新訳文庫)において

政治的統一というものはなかった。けれども、一九世紀のあいだずっと、それに二〇世紀の初頭は、左翼の人間は、だいたいにおいて政治的かつ人間的な原理を参照していて、そこから発して、思想や運動を考えていたように感じられる。左翼とは、そういうものでしかありえないしね。
(63頁)

 晩年のサルトルは一九・二〇世紀の左翼を否定する。一八世紀の革命前の集会、デモや新聞、ビラなどの運動にこそ左翼の本来の姿があるとした。反権力としての読書は、この運動に留まる力が必要なのではないか。これこそ抑圧装置を打破する活力の源であろう。
 では、反権力を帯びるような読書を誘う現代作家の場合をみてみよう。僕は平成不況に現れたロストジェネレーションを軸に据えた〈セカイ系〉の小説群の運動を再評価してみたい。1960年代の政治的人間と性的人間の対立構造は1990年代において褪色して経済と性の生存競争となった。90年代のJ文学はそれに対峙する暴力と性の前景化だろう。つづくゼロ年代の〈セカイ系文学〉も血と暴力の闘争であった。ゼロ年代に台頭したマンガ・アニメ・ゲーム的なオタクカルチャーのリアリズムに小島信夫や大江健三郎、中上健次らの「血」を導入すること。かつアメリカ文学の文脈が強い。サリンジャー、オースター、トム・ジョーンズなど。さらにはドイツ語圏のニーチェ、フロイトの影響もあるだろう。これらは村上春樹一強へのカウンターになった。また『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)『攻殻機動隊SAC』(2002-2003)『輪るピングドラム』(2011)のアニメ史との連関も考えられよう。
 本特集〈ファウスト系〉の母胎となる『小説現代10月増刊号』として2003年10月発行開始の『ファウスト』(講談社、2003ー2011)には、当時の「セカイ系」人気ライトノベル作家らが集結した。舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新、滝本竜彦、乙一、奈須きのこ、北山猛邦、竜騎士07、錦メガネ、上遠野浩平、渡辺浩弐、清涼院流水、筒井康隆など。キャッチコピーで「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」と謳うように鬼頭莫宏、西村キヌ、すぎむらしんいち、笹井一個、小畑健、西島大介、武内崇、竹、箸井地図、405など数多くのイラストレーター&漫画家が参加。イラストを活かすためか全頁にわたってノンブルがないのも特徴的だった。『ファウスト』は新書サイズの判型に鈍器ともいうべき分厚さの「レンガ本」だ。3号からは講談社MOOKとして刊行され、台湾、韓国、北米などへの世界進出も果たした。ゼロ年代に登場した『ファウスト』は国内においても当時の若年層を中心に好意的に受け入れられたようだ。僕自身は、2003年当時28歳で高齢ニートといってよい社会的ステータスなこともあって、一歩引いてはいたものの熱狂した地方都市読者の一人だった。東浩紀は率先として当誌を評価して『ファウスト』にも執筆陣として名を連ねている。また東責任編集『美少女ゲームの臨界点』(2004)ではたびたび『ファウスト』に言及する。

既存の文学業界やライトノベル業界からは反発もありますが、『ファウスト』は美少女ゲームがはからずも抱えてしまった「文学性」と、それが生みだした方法論に対するひとつの解答だと思います。
(佐藤心、35頁)
 
 また『美少女ゲームの臨界点』には滝本竜彦の変名・夜ノ杜零司「えいえんはないよ。いや嘘たぶんあると思うよ。」という小説が掲載された。だがしかし、ゼロ年代批評と〈ファウスト系〉の蜜月は長くは続かなかった。それは東の奈須きのこ批判や宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(2008)などいくつかの要因があるのだろう。作家個々人のたぐいまれな活動を集結させた〈ファウスト〉は党派的・政党的な活動になり、批評家からの無関心・総批判によって一網打尽された感が強い。舞城のラブ&ピース転向、佐藤の出版セカンド童貞、滝本のラノベ保守本流化など、〈ファウスト系〉はテンデバラバラに見えていたが、pha、ロベス、佐藤友哉、滝本竜彦、海猫沢めろんの「文学系ロックバンド」エリーツの再結成(2020)と同人誌『ELITES』(2020-)の創刊、そして佐藤友哉デビュー20周年記念復刊企画(2021-)など、佐藤曰く「復讐」という宣言と共に〈ファウスト系〉市場が活況を呈しはじめているのは間違いない。この動きがかつての連帯による失速の二の舞にならないことを祈るばかりだ。そのためには運動を一点収斂しない拡散力が必要であり、それは読者一人ひとりの活動にかかっていると思う。具体的には同人誌刊行、読書会やフェスの開催だろう。文学ムーヴメントは、政治的統一ではない分裂を見つめつづけるものたちの集合によってその真価が問われるはずだ。いちどは消えたかのように見え、いま再燃しようと市場を窺っている〈ファウスト系〉はこの時代にいかに響くのだろうか。

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