日記(36)

2020年6月11日

 木曜の午後はだいぶ雨が降ったようだ。眠っていたから気づかなかった。起きたときには小降りになっていた。シュウマイを食べる。先日から中上健次『岬』(小学館文庫)に取り組んでいる。いま30頁くらい。この文庫は、2000年に神田三省堂で買ったと思う。『岬』には何度もトライしているが序盤の宴会の場面で毎回挫折してきた。登場人物が多く関係性や発話者がどうも掴みづらい。フォークナーっぽいから読みにくいんだと決めつけていた。中上を知ったのは彼が亡くなった1992年だった。当時、自分は17歳で、中上は46歳。自分が来年その享年に達するのには言葉もない。92年はいろんな新しいことを知った。兄に薦められるままに近所のケヤキ書店(現在はモバイルショップ?)で春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と龍『69』を買った。そのときは漱石・芥川・太宰に毒されていた。あとは乱歩。それから筒井康隆に手を出し始めた。おそらく金井美恵子や高橋源一郎、島田雅彦は知らなかった。バタイユは18歳、サドは20歳かそこらだろうか。追悼の躍った帯の中上の文庫は『日輪の翼』と『十九歳のジェイコブ』だったはずだ。どちらも冒頭で面食らった。読み通せなかった。現代純文学との初めての遭遇だった。近代文学との異質さに鼻白む思いだった。春樹もそうだった。『世界の終り~』のエレベーターの虚無的な語り口に拍子抜けした。現代文学には馴染めなかった。でも筒井や源一郎にはすぐにフィットした。大江の『セヴンティーン』を読みあぐねていた10代でもあった。けっきょく大江、中上、村上をちゃんと読めたのは20歳を超えてからだ。20歳くらいは笙野頼子を尊敬していた。龍は成人式の前後に『69』を読み終えてひとり悦に浸っていた。春樹は21歳の上京直前に『風の歌を聴け』を読んだ。上京後、奥泉光、多和田葉子、阿部和重、中原昌也、福永信を読み現代日本文学にどっぷりハマった。中上は浅草のマンションで初めて読んだ。23、4歳だった。近所の古本屋で『鳩どもの家』(集英社文庫)を見つけたのがきっかけだった。中上の長篇はいまだに読めていない。春樹と龍もかなり読み終えていない穴がある。読みたい本というよりも読まなければならない本になっている。やっかいなことだがこれが生きる糧でもある。大げさだが自分のはじまりといえる。これは各人出自を異にするものなのでどうでもいい四方山話ですけど。

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