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邦楽と人生(1)

幼少期のテレビにリモコンはない。「ガチャガチャ」と呼ばれるツマミでチャンネルを切り換えた。むろんアナログテレビだ。テレビが覇権を握っていた時代。『欽ちゃんのどこまでやるの!』(欽どこ)と『8時だョ!全員集合』(全員集合)は物心つけばマスト番組だろう。両者ともにお笑いパートと音楽パートに分かれていた。音楽は細川たかし、アリス、ピンク・レディ、あみん、わらべ、イモ欽トリオが好きだった。なかでもイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」(1981)はとても幸福な気持ちにしてくれた。

ハイスクールララバイ イモ欽トリオ Imo-Kin Trio (youtube.com)

同年、寺尾聰「ルビーの指環」(1981)リリース。年末に日本レコード大賞受賞。当時のテレビ放送はいまでも鮮烈な記憶だ。

寺尾聰 Terao Akira - ルビーの指環 (1981) (youtube.com)

私は幼稚園のおおきい組(6歳)。歌謡曲は憧れの大人の世界だった。小学生は『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』を観ていた。なぜならみんなもそうだったから。一億総中流だったのだろう。印象的なのは杉山清貴、中森明菜、桑田バンドらだった。

ふたりの夏物語 杉山清貴&オメガトライブ (youtube.com)1985

中森明菜 DESIRE (youtube.com)1986

スキップ・ビートSkipped Beat (1986 07 02) - 桑田佳祐 Keisuke Kuwata サザンオールスターズ (youtube.com)

中学では4歳上の兄から筋肉少女帯を教えられた。ボーカルの大槻ケンヂは「サブカルお兄さん」のハシリで有頂天、キング・クリムゾン、ゴダール、フェリーニ、タルコフスキーなどを知った。兄は筋肉少女帯のファンクラブ「ノーマン・ベイツ」会員で、『宝島』の熱狂的な読者だった。

筋肉少女帯/キノコパワー(Official Music Video) (youtube.com)1988

ボヨヨンロック まんが道 (youtube.com)1988

Ikujinashi (youtube.com)1988

兄は『宝島』で大友克洋を知ったそうだ。『AKIRA』『童夢』『ショートピース』『ハイウェイスター』『気分はもう戦争』『さよならにっぽん』『ヘンゼルとグレーテル』などを次々に読んだ。映画『AKIRA』(1988)も兄弟で観た。芸能山城組のテーマソングは衝撃だった。

AKIRAオープニングシーン (youtube.com)

芸能山城組 - AKIRA (SOLIDSEEKER Remix) (youtube.com)

高校で電気グルーヴと出会う。兄が『662BPM BY DG』(1990 インディー盤)を通販したのだ。テクノ、ラップ、ヒップホップという新ジャンル、放送禁止用語の連発、「レス・ザン・ゼロ」(メジャー盤『N.O.』)のブルース魂など自分の10代を規定した一枚となった。友達が家に来たらまずこのアルバムを共に聴いた。

電気グルーヴ - 電気ビリビリ 【662 BPM BY DG】 (youtube.com)

電気グルーヴ (Denki Groove) - 無能の人 (LESS THAN ZERO) (youtube.com)

1990年代は近所にレンタルビデオが開店し、バイト代でCDラジカセや家庭用ビデオデッキを購入した。おかげでオーディオ&ヴィジュアルまみれのティーンエイジャーだった。いろいろ調べるなかで少年時代に無意識に聴いていた曲と出会い直した。

有頂天 - BYE-BYE (1986) Uchoten - BYE-BYE (youtube.com)

派手!!! 中山美穂 (youtube.com)1987

木枯しに抱かれて 小泉今日子 (youtube.com)1986

「悲しみよこんにちは」斉藤由貴 (youtube.com)1986

はいからさんが通る Yoko Minamino 南野陽子 1988.2.15 (youtube.com)

高校の友人たちとカラオケで歌った。「かの過ぎ去った悲しく、また取りとめのない青春」(魯迅「野草」)。
(つづく)


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