日記(10/18~10/25)
旅行前の節約のためここ数日自宅に籠ってドラマや映画を観ている。土曜は『言霊荘』(テレビ朝日)の1話と2話。日曜は『真昼の決闘』(1952)、そして今日は『シシリーの黒い霧』(1962)。この3作の不思議な共通項として重要な人物が子細に描かれずに物語が進むという演出があった。『言霊荘』ではマンションの管理人は姿を見せずに不気味なバスタブが映るに留まる。『真昼の決闘』では釈放される殺人犯・ミラーを最後の決闘まで待つことになる。『シシリーの黒い霧』では独立軍のリーダー・ジュリアーノが物言わぬ死体としてしか現れない。物語の骨格となるべき中心人物をあえて描かない手法はキャラクターだけではなく事件や土地などでもあり得る。たとえば大江健三郎の『取り替え子』(チェンジリング)における「アレ」と呼ばれる「事件」である。それは三島の割腹であったり塙吾良(はなわ・ごろう)と長江古義人(ちょうこう・こぎと)の青年期の「事件」であったりする。村上春樹でいえば『神の子どもたちはみな踊る』における被災地・神戸に登場人物の誰もが足を踏み入れないという手法になる。このような固有名をぼかしたり指示語で誤魔化したり周縁から中心を描いたりすることは山口昌男(1931-2013)のトリックスター論に詳しいのかもしれないが僕はよく知らない。参考書として大江健三郎『新しい文学のために』(岩波新書)から入るのがよさそうではある。
さて、映像を観ていた前には短篇にハマっていた。
永井荷風
「深川の唄」(『日本近代短篇小説選 明治篇2』岩波文庫)
「羊羹」(『木の都 日本文学100年の名作 第4巻 1944-1953』新潮文庫)
なかむらあゆみ「空気」(『公募ガイド』2021年11月号)
千葉雅也「マジックミラー」(『オーバーヒート』新潮社)
村上春樹
「踊る小人」(『螢・納屋を焼く・その他の短編』新潮文庫)
「緑色の獣」(『レキシントンの幽霊』文春文庫)
「プールサイド」(『回転木馬のデッド・ヒート』講談社文庫)
「鏡」「蟹」(『めくらやなぎと眠る女』新潮社)
三島由紀夫「百万円煎餅」(『花ざかりの森・憂国』新潮文庫)
だいたいは秋の論考のために読んだのだがよくわからなくなってきた。加えて「私にとって『万延元年のフットボール』は必要ではない」(江藤淳『石原慎太郎・大江健三郎』中公文庫)を読んで甚く感銘を受ける。僕は江藤を断然支持したい。
あとはこの一週間ほどに郵便局に2度行った。駅前の書店で文芸誌を買った。『機動警察パトレイバー the movie』を録画した。そして週末には上京する予定だ。『少女 歌劇 レヴュースタァライト』を観ようと思う。資金面は来月も上京するつもりなので緊縮ではある。
固有名だらけの日記になってしまった。概念や抽象の話題も書いてみたいが暴走気味になるので今日はこんなところで……
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