日記(21)

2020年1月4日

 昨日はまったく読書をせず、ブックオフとネットに費やした。僕はどうやら毎日本を読むことができない質らしい。大学生活を振り返ってみれば肌が合わず、いまさら再入学して院を目指してもすぐ挫折しそうだ。もう現状に開き直って市井の文学徒としてなんとか生きてみるしかない。
 持続可能な出版活動のためには健康とやる気、資金などが必要だが、もう先のことはわからないのでとりあえず今日は本を読んでいた。加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書)だ。ここで柄谷行人のカントに関する文章が引いてあったので孫引きする。

 カントは「構成的理念と統整的理念」を「区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えてください。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているものは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、『目的の国』とか『世界共和国』と呼んだものは、そのような統整的理念です」
(618頁)

 僕は価値創造に重きを置きすぎて、作品の内容を勝手に解釈し、形式の美学的な理念を蔑ろしてきたと思う。それが作品にも投影され、読解不可能性から遠く離れた解釈可能な軽量な作品を量産することにもなっているかなと。
 文学における『目的の国』『世界共和国』といえるのは、僕のなかではいまのところ『百年の孤独』や『モロイ』になる。やはりああいった一義的な解釈を退けるような人生そのもの戦争そのもののようなものを目指すべきだろう。いくら短い作品だとしても。
 とはいえそれは独立した地平に立とうとするものであるべきだろう。ただ混沌であればそれで事足りるなんという浅はかなものではない。模倣した混沌ほど醜いものはないからだ。だから実現が難しくて明確な理念を作品の端々に込めたいものだ。その運動が弁証法的な実用性の権力を瓦解させるのであればよい。この意志がなければただの混沌とした文章は冷め切った曖昧さで終わってしまうだろう。そんな戦争状態ではなく、戦争機械になること。構成を逸脱した単純さの堆積は、ごちゃごちゃした網目よりも強靱である。
 少々、語りすぎたようだ。明日は外出したい。
 

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