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新しい書き手に(一)

自分が初めて小説らしきものを書いたのは1992年5月。16、7歳だった。「幻想」という原稿用紙6枚の掌編。筋書きは「可愛い女の娘」が描きたいひきこもりの高校生が想像どおりの絵が描けずに鬱憤を溜めて夜の路上で強姦するというしょうもないものだ。当時は大友克洋『ショートピース』『ハイウェイスター』(共に1979)に心酔し、おそらく土田世紀『未成年』(1988)の影響下にあったのだろう。いまだ三島由紀夫、大江健三郎、中上健次らを読まずに、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治が「文学」だと信じていた通信高校生のカウンターは滑稽だろう。とはいえ作家になろうとは思わなかった。自分は一介のオタクであり、TRPGのゲームマスターとかゲームブック作家、グループSNE、富士見書房、二見書房の編集者のほうが就きたい職業だった。小説家は川端康成みたいな文豪に弟子入りして何年もの修行の果てに成れるものだと決めつけていた。とはいえ高橋源一郎と筒井康隆の出合いが小説家のイメージを刷新した。高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』(1989)や筒井康隆『朝のガスパール』(1992)だ。後者は朝日新聞の連載(1991年10月18日~1992年3月31日)である。リアルタイムで追っていたことから自分も小説を書いてみようと思ったのだろう。ちなみに本連載前は中上健次『軽蔑』(1991年2月13日~1991年10月17日)。中上健次は1992年8月12日没。中上健次と筒井康隆の連載後に大江健三郎の「文芸時評」(『小説の経験』1994)が同紙で連載開始(1992年4月22日~1994年3月29日)。自分はいっさい記憶がない。そもそも当時は大江健三郎すら知らないのではないか? 1994年10月大江健三郎はノーベル文学賞受賞。朝日新聞の「文芸時評」は大江健三郎の次が蓮實重彦。紙面で阿部和重の第一作『アメリカの夜』(1994)と「ABC戦争」(1995)を高く評価した。柄谷行人は中上健次の死で「近代文学の終り」を宣告したが、中上死後の1993年には東浩紀が『批評空間』でデビューし、1994年阿部和重デビュー、大江ノーベル文学賞受賞なので、畢竟「現代文学の始まり」は1993年かもしれない。とにかく1990年代の文学は革命的だった。保坂和志「プレーンソング」(1990)、多和田葉子「かかとを失くして」(1991)、松村栄子「至高聖所 アバトーン」(1992)、奥泉光「石の来歴」(1994)、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」(1994)、室井光広「おどるでく」(1994)、町田康「くっすん大黒」(1996)、池内広明「ノックする人びと」(1996)、星野智幸「最後の吐息」(1997)、清水博子「街の座標」(1997)、阿部和重「インディヴィジュアル・プロジェクション」(1997)、福永信「アクロバット前夜」(1998)、中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(1998)、阿部和重『無情の世界』(1999)など。他方で思想では1991年に柄谷行人・浅田彰『批評空間』創刊があった。1989年昭和天皇崩御・ベルリンの壁崩壊、1990年バブル崩壊・東西ドイツ統一、1991年湾岸戦争・ソ連崩壊。90年代は冷戦構造がドミノ倒しになったメルクマールだ。文学ならびに芸術文化あらゆる価値観が変革した。あれから30年以上経過しても90年代の「あれ」について1960年代のカウンターカルチャーと並ぶような文化研究・社会的言説はいまだ現れていない。(つづく)

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