解放のあとで 十三通目 α

2020年9月5日

古谷みのりさんへ

 近況報告。8月は森鴎外の短篇のあとかなり間を置いて三島由紀夫「反革命宣言」とコナン・ドイル「赤髪組合」、志賀直哉「小僧の神様」を読んだ。シャーロック・ホームズは父の愛読書であり、兄も年少のころより読んでいたものだが、僕はドイルでは『失われた世界』や宮崎アニメの『名探偵ホームズ』で育った。ルパンさえ原作はいまだに読んだことはない。三島のほうは月末のツイキャスのために読んだ。併せて後日にマルクス『共産主義者宣言』を。これに重ねたつもりはなかったのだが、柄谷行人『政治と思想 1960-2011』に触れ、大きな衝撃を受けた。この点については前述のキャスで多くを語ってみたが読了次第ブログなどで感想をまとめてみるのも一興だろう。あとは全共闘関連で映画『マイ・バック・ページ』(2011)を観たぐらいで、残りの余暇は買い物と音楽とTwitterに溶けたようなものだ。毎度のことだが。
 さて、このリレー書簡が今月で終わる。それを踏まえ古谷さんの投信に返答したいと思う。まずは怪奇小説への想いとヒトラーの優生思想に端を発する二十世紀の思想的抑圧について考えるとき、僕は埴谷雄高の「文学は内的自由のためにある」という言葉を想起する。これは地元の図書館で適当に借りた本のなかで見つけた文章で正確な引用ではない。埴谷は獄中でカントやドストエフスキーを読み、革命思想に目覚めたようだ。それはさておき『日本近代短篇小説選』(岩波文庫)から埴谷「闇のなかの黒い馬」を読んでみた。これを端緒に最近の思索を記す。
 本作は、ボルヘス「アレフ」と対にして考えてよいと思う。あるいはカフカ「狩人グラフス」でもいいだろう。出来事、宇宙、死、永遠というような言葉が浮かんでは消える。こう書くとなにか高尚で形而上学的な小説だと錯誤されがちだ。たしかに埴谷は「形而上小説」を書いたといわれている。だが果たしてそうだろうか。大作『死霊』は読みさしではあるが、埴谷のドキュメンタリーを若き日に観て大いに衝撃を受けた身としてはその「形而上」に否定的な意見を唱えたくなる。カントの形而上学批判に留まらずに。たとえば鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』では、ドゥルーズの当該書において、存在論的な枠組みとして「第一次領域」「第二次組織」「第三次整序」という三つの次元を論じている。「第一次領域」とは「「物理的(physique)」な音や叫び、吐息あるいは単なる線の連なり」である。次に「第二次組織」は「形而上学的=メタ物理的(métaphysique)」にあたり、「第三次整序」は「事態の指示、人物の表明、概念の指意という三つの機能」を備える。これを踏まえ鹿野は「第三次整序」の解釈について、千葉雅也と檜垣立哉を批判する。彼らはこの概念を「表面の下で蠢く「差異化=分化されていない深層」(profondeur indifferenciee)」としてではなく「高所に位置づけている」とするのだ。ドゥルーズは「第三次整序」を「意識ー前意識系」に帰属するものとしている。形而上と深層についてはまだ自分の考えがまとまらないので以下茫漠として書く。ドゥルーズは、深層は高所ではなく表面に移行すると説く。私見だが小説=テクストとはこの深層ー表面の具現化だと思う。テクストは決して形而上ー高所のものではない。当然だが表面とは恣意的・差別的な外見認知ではない。むしろ表層といえばいいか。下部構造の関係の矛盾を表層化して上部構造との間に「交換」「交通」の「社会」を形成する。ゆえに上部構造の「国家」や「国民」「民族」「資本」の対抗軸になり得るのだろう。これは古谷さんの文学観に呼応するものかもしれない。まあ僕の自説は、へーゲルとマルクスを跳躍した柄谷の思想のトレースに過ぎないが。
 ところで先日アラン・レネ『夜と霧』(1955)を観た。衝撃的で残酷・凄惨な映像と客観的ともいえるショットのモンタージュも然ることながら、僕がもっとも感銘したのは死体の山のショットのあと、廃墟と化した強制収容所の風景カットに重なる言葉を探し求めるような長めのモノローグだった。その語りとともに映画は終わるわけだが、ここに形而上ではない、いってみれば「言葉の物質性」(カントの物自体とは違う)のようなものがあったと思う。ここで深層-映像-表層とまとめることもできるのやもしれんがまだよくわからない(蓮實理論には安易に回収されたくはない)。この「言葉の物質性」言い換えれば「言語の物質性」というもの。アウシュヴィッツのような映像を観ると人は即座に「怖い」「かわいそう」「戦争はいけない」と表象してしまう。それに対しインテリは表象不可能性を標榜するが、これはよほどの超人でないと無理だろうと今回思った。どうしても立ち行かない現実・現象を前にして人はなにかにつけ「解釈」してしまう生き物なのだ。だがそうだといって生物学的認知機能に降参してしまってはならないだろう。これに抗するものとして「言語の物質性」があると感じる。僕は22歳のときに読んだ奥泉光『石の来歴』で初めてこの感触を手にすることができたはずだ。つまり独我論ではなく経験主義的なものなのだろう。もちろん「不在の神」の他者において小石を粘り強く積み重ねてゆく途方もない所業である。我が一生、失敗しながら続けてゆくものだろうか。
 話が長くなった。さて、前衛アンソロジーでは戯曲を書いてみたかったが、昨今のコロナ事情で観劇もままならず断念した。代わりに焦点移動を主とした短篇を掲載しようと考えている。とはいえ、ウルフ『ダロウェイ夫人』を読み進めてみれば、技巧的な移人称に収まらない、「各観点に対して絶対的に区別される風景」(ドゥルーズ)としての内省が描出されており舌を巻くばかりだ。「出直してきます」としかいえない。そしてまえまえから気になっていたジャン・コクトー『オルフェ』(1950)を観ようとしたがこれも今後の課題としたい。ということで次からの返信では近況とともに各人の「前衛」との格闘風景を伝えてほしい。加えてリレー書簡のまとめを最終投稿者にお願いしたい。

松原

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