『REBOX2』序文

特集:反映画
「残酷の劇場」──現代の芸術から自由に語ること

 20世紀は映画の時代であり、21世紀は動画の時代だという。2世紀をまたいで「映像の世紀」と謳ってもよいだろう。
 大概的な時代認識に立てば1945年に一本の線が引かれるように1995年と2011年にも境界線は引かれる。沖縄地上戦と広島・長崎への原爆投下、そして阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件ならびに東日本大震災の大津波と福島第一原発事故。海辺の街と科学の災禍。この反復はなんであろうか。
 映画は時代の象徴といわれる。だが「反映画」は時代を表象ー代理するものではない。安易な時代認識に回収されることなく映画を鑑賞すること。19世紀末にフランスで誕生した映画は写真と同様に複製芸術である。近代とは複製技術とともに始まった。21世紀に入ってもその優位性は変わらないだろう。複製が横溢する現在においていかに本物を護持できるのか。それにはトリビアや都市伝説に陥ることのない小さな過去の開示が必要だと考える。時代という大文字の歴史を破壊して消費・消化に裂け目を入れるような映画鑑賞をしていきたい。「反映画」は構図至上主義や悪趣味、コレクション&セレクト、衒学、素朴さを標榜する映画批評と距離を取るものである。
 1945年は黒澤明、アルフレッド・ヒッチコック、ビリー・ワイルダーの時代だった。1995年は庵野秀明、クエンティン・タランティーノの時代であり、2011年は虚淵玄、山田尚子、J・J・エイブラムスの時代だった。時代の勝者からこぼれ落ちた映像に新たな価値を見出すこと。
 大澤真幸は1945年から1970年を「理想の時代」、1970年から1995年を「虚構の時代」、1995年から2020年を「不可能性の時代」とした。私は「虚構の時代」に生まれたが、本誌の主要なメンバーは「不可能性の時代」に生まれた世代である。彼らはマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』における「非歴史的で反記憶的な即時的情報通信の文化の中に生まれた世代」の範疇に入るだろう。Z世代とも呼ばれる。
「理想の時代」は戦後の高度経済成長期のことを指す。瓦礫と焼け野原の中で復興の希望とともに生きた時代だ。とはいえその始点の1945年製作の海外映画は私の観たかぎり陰鬱で暗澹なテーマを扱っている。『白い恐怖』はフロイト精神分析、『失われた週末』はアルコール依存症、『そして誰もいなくなった』は連続殺人事件、『恐怖のまわり道』は突然死からの逃避行、『コレヒドール戦記』はフィリピン戦線のアメリカ軍魚雷艇、『天井桟敷の人々』は狂気の仮面劇、『ブローニュの森の貴婦人たち』は破滅的な恋愛、『無防備都市』はレジスタンス。まさに第二次世界大戦の深い爪痕を想起せざるをえない。だがこうした感慨はあまりに「映画的」な安易な時代精神に即したものなので慎むべきだろう。列挙した映画はどれもこれも残酷な楽観主義に貫かれている。時代と映画に別角度のライティングをほどこすことが「反映画」なのだ。
 そこで私がまずもって注目したいのは日本で1945年に作られたミュージカル仕立てのコメディである黒澤明の『虎の尾を踏む男達』だ。主演は大河内伝次郎と榎本健一である。能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」を翻案した本作は、義経一行の関所破りが成功したあとのエノケンこと榎本健一が最大の見物だと思う。武蔵坊弁慶の大河内伝次郎が加賀の国の地頭・富樫左衛門からの酒肴により泥酔する横でのエノケンの舞と飛六方は、義経をまるで天皇にように描く演出と相まって荘厳かつ洒脱だ。本製作には敗戦がはさまったことで占領軍の検閲でお蔵入りになり、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年に初めて上映された経緯がある。『虎の尾を踏む男達』に戦後の天皇制保持と経済繁栄を読み取るのはたやすい。むしろ私は内務省による上映禁止とそれを抑圧する側のGHQが解放したという端的事実の倒錯関係に重きを置きたい。太平洋戦争時の映画を語るうえでとかく俎上に載るのは1943年の政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』(松竹動画研究所)と1945年の瀬尾光世『桃太郎 海の神兵』(同上)だろう。そして比較対象として敵国アメリカの1940年製作『ファンタジア』(ディズニー)を挙げ、両国の国力の違いを分析する論説やドキュメンタリーは数多あると思われる。では黒澤明とジョン・フォードの戦中・戦後の歩みについて比較したものはどうなのだろうか。このように稀少な書物を紐解いたりインターネットの検索を駆使したりして知り得る「歴史的で記憶的な映画産業の文化の中に生まれた世代」の体験は想像を絶するものだ。しかし私はこの隔絶を東浩紀のように積極的に歓迎したい。表層(ドラマ)の戯れと深層(システム)の読解を共存させること。

近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが、ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。
(『動物化するポストモダン』、52頁)

 次に「虚構の時代」の映画として1987年製作のチャン・イーモウ『紅いコーリャン』を挙げたい。本作は抗日戦争を描いたものである。原作は莫言の『赤い高梁』。1920年代の山東省を舞台に物語は始まる。18歳のチアウルは親子ほど年の離れた隣村の酒屋の主人と結婚する。だが主人は忽然と行方不明になりチアウルは強盗から救ってくれた酒場での働き手ユイと電撃的に再婚し子供をもうける。幸福な家庭を築くが村に残酷な日本兵がやってくる。日本兵が中国人ゲリラの皮を剥ぐ拷問シーンは衝撃的であり、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994ー1995)の間宮中尉の皮剥ぎを彷彿とさせる。本作はこのシーンの残虐さで物議を醸しベルリン映画祭を騒然とさせるがグランプリの栄誉に輝く。映像はタイトルのとおり「紅」に溢れる。村の色彩の「紅」は戦争の血に染まる。コーリャンを醸造して造る白酒との対比は鑑賞後も網膜に刻まれる。広大なコーリャン畑と戦争。中国の超自然的村の生活が日本兵に蹂躙されるさまはガルシア=マルケス『百年の孤独』に通じるものだろう。中国やコロンビアのように魔術的想像力と自国の歴史の混在を日本は創造できているのだろうか。アメリカにはトマス・ピンチョンがいる。ピンチョンをメタフィクションやSFの数奇な物語を書く作家だと見なしてはならない。莫言、マルケスのように自国の歴史を換骨奪胎してリアルとフェイクの明度を際立たせているのだ。私は『紅いコーリャン』に残虐行為の反時代的な定着を見た。日本でチャン・イーモウと比肩できるほどの想像力と歴史性を踏まえた映画監督は吉田喜重だろうか。
 さらに「不可能性の時代」の映画で注目したいのはクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』(2006年製作)だ。本作はジェームズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるノンフィクション『硫黄島の星条旗』を原作にポール・ハギスらが脚色したイーストウッドの監督作である。題材は1945年度ピュリツァー賞受賞作のジョー・ローゼンソール「硫黄島」だ。イーストウッドの映画で語られるのはそのうちの一枚「摺鉢山に掲げられる星条旗」(Old Glory Goes up on Mt.suribachi.)。この写真が日刊紙の一面を飾るや全米全土は熱狂の渦に呑まれた。戦況は悪化の一途を辿っていたようだ。国民の士気も落ちていた。そんな世論は一枚の写真で被写体の六人の兵士を一躍「英雄」に祭り上げた。レイニー、アイラ、ドク、マイク、ハーロン、フランクリン。このうち上記三人が生還し残りの三人は硫黄島で戦死する。そしてハーロンの代わりに写っていないはずのハンクが写っているとされ旗を掲揚したものとして英雄となる。だがハンクも戦死しており残酷な真実として「摺鉢山に掲げられる星条旗」は戦闘開始五日目に差し替えられた旗つまりは「第2の旗」であってハンクこそが「第1の旗」を掲げたものだった。ところが軍部、政府、国民、メディアはその事実に拘わらず写真の兵士たちを「英雄」として扱うことをやめることはない。やがて三人は戦死者の影にそれぞれ心を乱されてゆく。そして事の真相が明るみに出るのは戦後数年が経過したあとだった。蓮實重彦は中原昌也との対談でドク役のライアン・フィリップについて以下のように述べている。

 監督も「画面を背負え」とは全く言ってない。事実背負ってもいなんだけども、画面の中にすんなり自分を位置づけちゃう希薄な存在感が不思議な魅力になっていますね。

 アメリカのショウ・ビジネスによるスター・システムから逸脱する存在としてのライアン・フィリップと軍部、政府、メディアによって国民的英雄に祭り上げられるドクの非対称性。ドクは結婚後、葬儀屋に就き経営者となり一生を閉じる。いっぽうレイニーも結婚したのち用務員になり、アイラは農場で働きアルコールに溺れ早死にする。時代的な特異点からこぼれ落ちる「反英雄」たち。それでも映画はいつかのように「残酷な楽観主義」で終幕を迎える。蓮實は近著『見るレッスン』でこのように述べる。

 映画を見る際に重要なのは、自分と異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるはずなのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かわざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。
(11頁)
  
 同掲書において2019年7月18日の京都アニメーション放火事件に言及する蓮實は京アニの視聴者を批判している。蓮實の真意は京アニファンが当該アニメに対して「救い」を目的としたためである。それは先に引用した「残酷な体験」と比較検討される。しかし私にとって京アニの『けいおん!』はあきらかに「自分と異質なもの」であり「残酷な体験」といわざるをえないものだ。つまりはこれまでの実写映画と等価なわけだ。あの女子高生たちの閉鎖的空間は非現実であり凡百のファンタジーとは一線を画す到達不可能の世界なのだ。共感や憧憬の対象ですらない拒絶の身体性が屹立している。それはこれまで見てきた戦後映画の表象不可能性と相通じると思う。私にとってこれらの「残酷な体験」は「救い」だった。この点に関して蓮實との断絶を覚える。
 以上「理想の時代」の『虎の尾を踏む男達』、「虚構の時代」の『紅いコーリャン』、そして「不可能性の時代」の『父親たちの星条旗』を「反映画」として見てきた。映画というリアルとフェイクが綯い交ぜになったものを過剰に摂取すること。一過性な映画の見方から遠く離れて別角度から非歴史・反記憶の「反映画」に光を当てること。
 アレクサンドル・コジェーヴ『へーゲル読解入門』においての戦後日本のスノビズムとは「形式を内容から切り離し続ける」ことだった。それは「作品から意味を受け取ったり、また社会的活動に踏み出したりするためではなく、純粋な傍観者として自己(=「純粋な形式としての自己」)を確認するためである。」(『動物化するポストモダン』、100頁)。
 2020年から2045年という次の時代を迎えている現在、「反映画」の視座に立つことでスノビズムを棄却し停滞した世界に「革命の時代」を到来させることは笑劇だろうか。大澤真幸は次の時代を「現実から逃避」するものから「現実へと逃避」するものたちの登場とした。「政治的思想空間」では抽象的な議論で空中分解することがままある。映画はこのような状況にカンフル剤となるはずだ。近い未来、世界的に沖縄・原爆、中国・東南アジア戦線、韓国併合、シベリア抑留、ノモンハン事件などの映画がもっと撮られてしかるべきだろう。原爆映画としては1959年にアラン・レネの『二十四時間の情事』が公開された。原作はマルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』というオリジナル・シナリオである。このような事案が増えることが望ましい。
 最後に映画と芸術について考えたい。スラヴォイ・ジジェクは20世紀という時代がコジェーヴの日本的スノビズムではなくシニシズムに覆われていることを喝破した。有名な「資本主義の終わりより世界の終わりを想像するほうがたやすい」である。このシニシズムに対抗するものは映画や文学、音楽などの芸術のほかありえないと思う。それは高度資本主義下での大量生産大量消費に代表される商品による文化資本主義に陥るものではない。では現代における芸術とは何か?
 日本近代文学の横光利一、川端康成、稲垣足穂らの新感覚派ならびに世界文学と謳ってもよい日本戦後派の安部公房、三島由紀夫、大江健三郎の創作の源泉には映画と音楽、演劇などのジャンルミックスがあった。21世紀に入っても芸術分野は緊密に影響しあうだろう。ゆえに本誌では映像的事象を小説として表現したものを多数掲載する。ジャンルの横断こそ暴力と性や日常とコミュニケーションといった複雑で困難な現代という時代を包摂する力たりえるのだ。

 アジュラスト[笑わない者たちを指すフランソワ・ラブレーの造語]たち、世の観念を鵜呑みにする無思想、キッチュ、これらのものは、神の笑いのこだまとして生まれた芸術の、三つの頭をもった同じ一つの敵です。
(ミラン・クンデラ『小説の技法』)

 芸術とは自己創造であるとロマン主義以来つとにいわれてきた。芸術の「残酷な体験」は極言すればニーチェの発狂のようなものではないか。あるいはドゥルーズの自殺のような発露ではないか。リチャード・ローティは真理の探求である芸術と「残酷な体験」を否認するリベラルの社会運動を統合しようと試みる。私はこれを「残酷の劇場」という言葉で表現したい。「残酷な体験」を真理として解釈しないこと。「残酷な体験」を自由の広場で聴衆に語りかけること。芸術を解釈の牢獄に幽閉しないこと。野外劇場で「すでに書かれた筋書き上の役を演じる以上の者になること」(ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)。
 まとめよう。本稿で映画は「残酷な楽観主義」「反英雄」「救い」とした。そのほとんどが「筋書き」以上のものではなかった。その反省は以下に寄せられる文章に「役を演じる以上」の創造を望もう。ふと思うに接続と分離の切換による思弁ではなくぼんやりと映画を見るように普段から物事を語れないものだろうか。その試みはさておきこれから続く文章にそろそろ場所を譲ることにしよう。

沖鳥灯

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