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死 (1) Wisdom of Silver Birch 1944

書き留めておきたくなり、ここに記します。
天国があるなら、なぜ人は早く死んでそこに行こうとしないのか。そんな話を聞いた記憶があります。先日、親戚が危篤状態から奇跡的に回復したが、複雑な思いがした。
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Wisdom of Silver Birch 1944
p17(死の関門を通って霊界入りする者を迎える仕事に携わる霊)
もう一つ強調しておきたいことは、みずから望まないかぎり、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。迎えに来てくれる人が一人もいないではないかなどという心配はご無用です。縁故のある人がいますし、それとは別に愛の衝動から援助の手を差しのべようと待機している人も大勢います。
誰一人見捨てられることはありません。誰一人見失われることはありません。誰一人忘れ去られることもありません。すばらしい法則がすべての人間を管理し、どこにいてもその存在は認知されており、然るべき処置が施されます。

p44(死についての誤解)
死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬとということは生命をうしなうことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由の身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるよりも豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させたもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、より大きな生へむけて旅立ったのです。霊本来のかぎりない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。
 苦痛と老齢と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。

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