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板前とサラリーマン

 今から四半世紀ほど前、ちょうどフリーになりたての頃に『週刊プレイボーイ』(集英社)で何度かコラムを書いたことがある。「ギャンブル特攻隊」というコーナーで、昔勤めてた会社のボーナスじゃんけん(ボーナス支給日に開催されるじゃんけん大会)の話や子供の頃の駄菓子屋のくじ(残り少なくなってたくじを友達とお金を出し合って全部買ったのに当たりが出なかった)の話なんかを書いていた。
 そこで、ある板前さんの話を書いたときのこと。彼女の父親に結婚を許してもらえずヤケになった彼、結婚資金として貯めていた300万を競馬に突っ込んだら大当たり! それを元手にさらに馬券を買い続けたら、何だかんだで1億円を超えてしまったという、運がいいんだか悪いんだか、わからないような話である。

 で、ここからが本題だが、そのコラムは「板前なんかに娘をやれるか!」という父親のセリフで始まっていた。ところが掲載誌を見たら、なぜか「板前に娘をやれるか!」になっている。どうやら「板前なんか」という表現が職業差別に当たるってことらしい。
 んなアホな、って話である。そこは板前という職業に差別意識を持ったガンコ親父のセリフであって、文章全体として板前を蔑視しているところは1ミリもない。そのすぐあとに地の文で〈自分だってただのサラリーマンのくせによくも言ってくれたものだ〉と書いているし、主役はあくまでも板前であり、父親は愚かな敵役だ。なのに、なぜそこで「板前に」なんて不自然なセリフにしちゃうかなあ。
 というか、「板前なんか」が差別なら、「サラリーマンのくせに」も差別だろう。前者がNGで後者がOKってのは理屈に合わない。にもかかわらず、そういう形で誌面になったのは、編集者もしくは校閲の側に「板前のような職業を差別的に扱ってはいけない」という一周回った“差別意識”があるからだ。逆に、サラリーマンに対してはもともと差別意識がないから、差別的表現にも無頓着になるのである。

 この手の職業用語に関しては、たとえば八百屋は「青果店」、魚屋は「鮮魚店」、床屋は「理髪店」と言い換えられたりするけれど、それも逆に失礼な気がするんだよなあ。本人の談話として使う分にはいいとか、「八百屋さん」とか「魚屋さん」みたいに「さん」付けならいいとか、いろいろ細かいルール(というか自主規制)があったりするが、そういう配慮をすること自体が差別のように思えてならない。
 近年では女性差別だからというんでスチュワーデスを「キャビンアテンダント」、看護婦も「看護師」と言い換えられるようになった。当の本人たちが「スチュワーデスと呼ばないで!」「看護婦と呼ばないで!」と思ってたならわかるけど、そのへんどうなのか?

 まあ、新聞記事やニュース原稿、公的文書などでそういった用語に統一するのは別にいい。勝手にしてくれ。でも、小説やエッセイ、コラム、マンガまで、右に倣えとやってしまうのはいかがなものかと思うのだ。
 2009年、「週刊少年チャンピオン」創刊40周年記念企画で描き下ろされた水島新司『俵と白球』は、ドカベン・山田太郎の少年時代を描いたもので、昭和51年5月5日に山田太郎が誕生するシーンから始まる。「オギャーオギャー」という元気な産声を聞き、「う 産まれた~~~~」と喜ぶドカベン父。そこで彼は、分娩室から出てきて「山田さん おめでとうございます」と言う女性に感涙の面持ちで「か 看護師さん」と言うのである。
 昭和51年の話なのに「看護師さん」って……。推測だが、水島新司は普通に「看護婦さん」と書いていたはずだ。それを編集者か校閲がオートマチックに「看護師さん」に変換した。これまたアホか、と言うしかない。

(※当記事は「季刊レポ」が発行していたメルマガ「メルレポ」2012年7~9月配信分を再構成して掲載しています)

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