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校閲おそるべし

 一般に、誤字脱字や語句の使い方をチェックするのが校正、それに加えて文章表現や固有名詞・事実関係の確認までするのを校閲と呼ぶ。ただし、両者の間に厳密な線引きがあるわけではなく、どこまでチェックするかはケース・バイ・ケース。中小の出版社では校正会社やフリーの校正マンに外注するのが普通だが、大手であれば社内に校閲部門を抱えていることも少なくない。
 この校閲というのが、なかなか曲者なのである。本を作る過程で校正・校閲が重要な役割を担うことは間違いない。誤字脱字はもちろん、著者も編集者も気づかなかったような事実関係の誤りを的確に指摘してくるような優秀な校閲者の仕事には敬意を表する。しかしながら、前回の徳間書店の話ではないが、「オマエにそこまで言われる筋合いはない!」と言いたくなる僭越な指摘をしてくる校閲がいるのも事実なのだ。

 河出書房新社の「14歳の世渡り術」シリーズで石原壮一郎氏の『ちょい大人力検定』という本を作ったときがそうだった。具体的な事例はちょっともう思い出せないが、著者がわざとボケてるところに「正しくは○○」とか、ギャグとしての比喩表現に「こういう比喩のほうが適切では?」みたいなことがいちいち書き込まれていて、ウザいのなんの。そういう指摘や疑問出しならまだしも、たまに感想だか批評だかわからないようなことが書いてあったりして、何だかなーと思ったものである。
 それでもまあ、最終的な決定権は編集サイドにあったので、大きな問題はなかった。同じ河出の仕事でも自著『国歌斉唱♪』のときは、外国の国歌の歌詞(英語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、韓国語など)のチェックが素晴らしく、大変助かったのを覚えている。そういう優秀な人は、お節介な指摘もしてこないから不思議。逆に、本来チェックすべき誤字脱字の見落としなどの多い人ほど、いらんことばっかり熱心に指摘してくるんだよなあ。

 もうひとつ、河出とか角川とか老舗の文芸系出版社の仕事で違和感を覚えるのは、ルビの扱いだ。たとえば「躊躇」に「ちゆうちよ」、「勃発」に「ぼつぱつ」というふうに、拗音・促音を並字(普通の大きさの文字)で表記する風習がある。その昔、活字で組版していた時代には、ルビはそのようにしか組めなかったのだろう。でも、今はどこもDTPなのだから、ルビのように小さな文字でも「ちゅうちょ」「ぼっぱつ」と組むことは可能である。だったら、発音どおりに表記したほうがいいと思うが、いかがでしょう。
 というようなことを、河出や角川の編集者に進言したことがあるのだが、「校閲が通してくれないんです」的な返事であった。角川なんて、デザイナーさんに組版までやってもらったページで発音どおりのルビになっていた部分を、わざわざ並字に直させられたほど。いったい何を考えているのやら……。

 この場合は校閲より会社全体のルールの問題かもしれないが、そんな旧弊を頑なに守り続ける意味がわからない。たまに「それが伝統だ」みたいに言う人がいるが、何のためにルビがあるのか考えてみてほしい。子供とか日本語勉強中の外国人とか、漢字や熟語が読めない人のためにルビを振るわけでしょう。なのに、ウソの読み方を教えてどうするの?
 数年前の話なので、今はもしかしたら変わっているかもしれない。個人的には写植世代だし、DTPで不揃いのみっともない文字組みになってるのを見るとイラッとする。が、表現も表記も守るべき部分は守り、変えるべき部分は変えていく姿勢は必要だろうと思うのだ。

(※当記事は「季刊レポ」が発行していたメルマガ「メルレポ」2012年7~9月配信分を再構成して掲載しています)

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