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【JRで車いすは乗車拒否されました】事象を整理。《もめ事論》

あいも変わらず《もめている》ホイルです。皆さんこんにちは

 2021/04/04 アップされたブログ記事【JRで車いすは乗車拒否されました】が多くの批判を集めているいるようです。
 この件について僕も呟き続け少なくない方々と対話しました。
 ソコから再確認した事と多岐に分かれてしまったツイート群を整理し
《もめる》とは〔悪い〕なのか?
を話していきます。少々お付き合いください。

序:ブログ記事を読む前に起きている《もめる》

 日頃から共に”議論のようなもの”を楽しんでる友人(笑)からこの様なリプが付いた。

 はて、僕がこの件に関わる理由とは「一般の障がい者」と「件の彼女」を切り離そうとしてる事なのだろうかと再考し整理してみた。
 (このツイは『「件の彼女」と「一般の障がい者」を分けて論じ「件の彼女」が悪く「一般の障がい者」は悪くないという論立てをしてるのかい?という問いだろう。)

 若干【抽象的な前提】を用いたが、
①「件の彼女」も「一般の障がい者」であり又、立場では「一般の障がい者」とは違う面も有しているだろう。
② 人格と身体は別個ではあるが切り離せるものではない(精神が身体に/身体が精神に影響を与え合う)

 程度の一般論である。
 ポイントは”【障がい者】だからといって人格者/聖人である必然はなく。
健常者同様に様々な個性を持つ”

 【障がい者】である現実は日々『生活し辛い』の繰り返しである事は想像が容易だ、その日々の中で《もめ事》も起こさず健常者に溶け込んでる方々は『障害があるのに立派』健常者に褒められがちである。
 その様な”空気”の中で障がい者は【《もめ事》を起こさないという”健常者社会”での一般常識】を身に付ける。

 残念な事に”健常者社会”は当然【健常者向けにデザインされている】ので障がい者の『生活し辛い』は(日々良くはなっているが)残り続ける。

 その中で『生活し辛い』(障がい者が生き易くなるようデザインを変えて欲しい)と要求すると《もめ事》を起こす事になるのだ。

 単純化すると【大勢が不満ではないデザインに少数が変更を求める】事がである。
 そして《もめ事》を起こすと一部の障がい者周りからも『《もめ事》を起こすと【障がい者への偏見】が増える』と不安が上がる。
 実に【不条理】ではないだろうか?

 そもそもが、【大勢が不満ではないデザイン】故に『生活し辛い』が発生しているのに、変更を訴えると『大勢(健常者)に【障がい者への偏見】が増える』
 『障がい者は《もめ事》を起こすな、それが【障がい者への偏見】を抑える』と【不安が上がる】のは【健常者の無理解ゆえ】であるのに。

 『健常者に理解して欲しいなら《もめ事》ではなく【丁寧に説明】するべき』という”一般常識的”なご意見を賜った。
『強い言葉では嫌がられる』
『他にも穏当な手段が』
『社会コストを考えれば』
お有り難いアイデアの数々。
 無自覚な強者仕草に感謝するべきだろうか?

 何故そのアイデアを【障がい者達は何度も何度も繰り返してきた】と本来容易に推測できる事に意識を向けないのだろうか?

簡単な事である。
《もめ事》が起こるまで健常者は【無関心】であるから。

《もめ事》が起きて初めて【無関心】であった健常者
《もめ事》に感心を向ける】

健常者の関心は
①誰と誰が
②どの様な《もめ事》を起こし
③その【原因】はなにか?
④【原因】を作った者が〔悪い〕
⑤〔悪い〕者を追い出そう!

と段階をへるので健常者の多くは酷くマニュアル的である。
 流れ作業の如く単純な【原因】で〔悪い〕者を排除し解決を提案した気分になれる。
”社会”の為に解決を提案した自分は善き一般市民。

 善き一般市民は次の《もめ事》に夢中になり又もや障がい者の《もめ事》が起こるまで、健常者は障がい者の『生活し辛い』には【無関心】になる。

 そして『生活し辛い』は残り【障がい者への偏見】が増えるという不安は加速していく。

1500文字を超えたので一旦終了です。
重い問題なので説教臭くなり申し訳ないです。
《もめる》事を恐れてはいないので挑発的な文章を選択しました。
【無関心】よりよっぽどマシだと思ってます。

続きが書き上がりました。

コレが当初の僕の感想であり、【腹を決めた人がソレを成した】は今も変わりません。



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