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20231002 教育熱心と教育虐待

教育熱心と教育虐待のボーダーラインはどこかと、必ずメディアに聞かれるから、もやもやしながら、いろいろと考えて答えてきた。少しずつ回答の仕方が変わってきていて、申し訳ない気もするが、なかなか納得してもらえる回答ができずに来た。

現時点では、こう答えればわかってもらえるかな、というところに来ているように思うので、今日の解、を書いておきたい。

この質問をするメディア関係者は、自分のやっていることは教育虐待ではないという免罪符や安心感が欲しい読者に応えようとしているのかなあと思う。そういう読者たちは、きっと「子どもが嫌がっているのに無理強いする」育児をしてしまっていて不安なのだろうと思う。
だから、そういう方たちのために、「いえ、あなたは大丈夫ですよ」という無責任な回答ではなくて、「そうならないために知っていてくださいね」ということを、ここに書いておこうと思う。


今日の結論、「はっきりと分けるラインや目安はない」

「えーっ」と言われそうである。
それでは身もふたもないから、もう少し話を進めよう。


この2つがどこで変わるかというと、

大人が良かれと思っていろいろと提案してくることに対して
子どもが嫌だと思ったときに、NO!が言えて、
大人がそれを聞いたときに、本人がそういうなら、と折れることができる、
押しつけを踏みとどまることができる。

という関係性があるかないか、である。

そのためには、まず、
 2人の間に対等な関係があること。
 お互いに対話(相手の言い分を十分に理解し、共感し、その上でお互いの利益について平等な意見交換をし、双方納得の上で妥協点を見つける)が成立すること。

が必要だろう。

子どもは大人に愛してもらうために忖度するから、
大人の顔色をうかがって、気に入られる答えを言いがちだ。
(それは子どもたちにとって生き残るために必要なことだ)

あるいは、長年の経験から、大人には負けてしまうと、意見を言う前にあきらめてしまっている。

だからそもそもそういう関係では、
親からの一方的な教育熱心は、つねに教育虐待になりかねない危険をはらんでいる。

でも、教育熱心であっても、子どもの心の声をしっかりと聴く姿勢と技術(共感能力)があれば、子どもが心や身体や脳の機能を壊すほどの「無理強い」はできないので、踏みとどまることができる。そのためには、子どもを自分の所有物だと思っていないことが必要である。「私の○○ちゃん」と言っている人は要注意かもしれない。

下記の投稿は、私の昨日(2023.10.01)のブログに対するコメントである。
この方は教育熱心だけれど、教育虐待にならなかった事例である。

*****************************
私も子どもの心配事で話し合えるママ友がいて助かった。
ママ友から気付かされた。

(子どもを)テニスに毎日通わせて上達して大会でも賞を貰うほどまでになった。肘を剥離骨折してもリハビリして耐えて頑張って応えてた。けど、その子がある日、テニスが面白くなくなった。楽しくない。孤独でいやだ。野球を友達としたい。と言ってきた。ママ友に話すと1番強い子のママ友でも、同じように、「そうそう、うちもよ。楽しくない。孤独が嫌だ。だから団体戦で楽しく試合したい。テニス部のある中学校へ行きたい。と進路変更したよ。」と今までのテニススクールを3月最後の試合で辞めていた。

またそのママ友は、「子どもの為に何万円も払ってテニスさせてきたけど、結局は親の自己満足なのよね。」
えっ?と思ったけど、良く考えたら、自分の子どもにも当てはまっていた。

子どもが自分で楽しく羽ばたいていけるようにと思うと、親が先を考えてあげてはダメ。答えを見つけてあげてはダメなんだと。

子どもが今やりたい事を、野球をさせてみようと決めました。

で、中学生になった今は野球部に入り部員の皆んなと仲良く頑張って楽しんでいます。

親は、応援者、伴走者くらいでいいかな?と。子どもから気付かされ、教えられる事もあり。私も子どもと同じ位置の初心者 で学びながらやっています。
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この場合は、親子の関係性もよかったし、親の友人関係もよかったから、
一つ間違えれば、やりすぎ教育(教育虐待) になるところが、ならずに済んだわけである。

もし、このまま続けさせていたら、教育虐待になっていたかもしれない。
そのくらいに、教育熱心と教育虐待には差がないのである。

さて、私としては、大人に変わってほしいと願うのだけれど、
大人に適切な行動をとってもらうのはなかなか難しいということで、
対策は子どもがターゲットになることが多い(そのことの問題については後で触れる)。

つまり、子どもの側に、NOを大人たちに伝えて逃げる方法が身についていれば、免れることができる可能性が高まると考えるのである。

それについては、下記の鳥栖の事件があった佐賀の佐賀新聞のこの記事はとてもいい。

 ここで議会質問をしている永江ゆき議員の発言が素晴らしい。
 

背景にCAPの考え方がにあるように思われる。CAPとは、「Child Assault Prevention(子どもへの暴力防止)の略で、子どもた ちがいじめ、誘拐、虐待、痴漢、性暴力といった様々な暴力から自分を守るた めの教育プログラムのことを言う」(警察庁のウェブサイトによる)。詳細は次の記事を参照してほしい。


子どもが、親のみならず、話を聞いて動いてくれる誰かにSOSが言えるようにすることが肝心である、と言っている。

その方策についてはまた議論の余地があるとしても、

(先ほど書いたように、私は、子どもに負担をかけて、「ひどいことをする大人がいるかもしれないから、そのときにSOSが言えるようにしておこうね」というトレーニングをするのは、致し方ない面があるとしても悲しいことだなあと思う。
 本来、求められるのは、被害者のトレーニングではなくて、加害者のトレーニングだろう。だが、自己防衛から始めなければ危険、というのはわかる。ちなみに、永江議員は、親や大人に対する研修にもちゃんと言及しておられる)。

現時点での予防策として、子どもにNO!が言えるようにしておくことは大事である(ただし、このNO!は、先ほどの投稿のNO!と違って、必ずしも信頼関係に基づくNOではないことには留意が必要だ)。

それが親に対してであれば一番いいし、もしそれができなくとも、誰か親に踏みとどまるように助言できるような関係の大人がいるといい。親戚でも地域の人でも。でも今は核家族が増えて、家族の中で物事が完結してしまうから、リスクが高いのである。

しかし一方で、ある臨床心理士からこんな指摘もあった。

*********
「親による巧みなモラルハラスメント」によって、半ば”洗脳状態”で、
「子供が自分でやりたいって言っていますから」となるケースが実際はほとんどである、ということ。

 その症状(問題行動)として考えられる、「学校にいけない」「学校で暴れる」「身体化する」など起こっても、
 それらの原因を「先生が悪い」「友達がわるい」など外部に問題を転嫁させる、など。
*********

つまり、先回りして、NOが言えない状態を作っている、
というよりも、
自分がNOであるということにさえ気づかないように子どもを育てている親
が多いのが問題だというのである。
そういえば、「子どもが自分でやりたいと言っている」と言われることは多い。それは、以前から指摘している「子どもの忖度」に親が気がつかない現象、である。

これではお手上げになってしまう。
(だから、私は、後ほど書くように、少しずつみんなが気づいていって、日本社会全体の価値観を変えるしかないと思っている)

だから、親に対する別の解決策として、
親に「クリティカルフレンド」がいるといいのだと思う。

クリティカルフレンド、というのは、
信頼関係があって安心できる関係の中で、親身になって「おかしいと思ったときに、おかしい、危険だと言ってくれる人」のことである。
それは、自分の親(子どもにとっての祖父母)だったり、兄弟だったり、
友人だったり、もしかしたら、子どもの兄姉(自分の子ども)だったり、友だちだったりするかもしれない。

かつては地域にもそういう人たちがいたのだけれど、今はそういう関係性が難しくなってしまったように思う。
それに、親は、自分の意見に同調してくれる人、同じ目標に向かって走っている人を友達に選ぶから、お互いに、私たちは大丈夫よね、と安心させ合ってしまうこともあるように思う。

だから、虐待している親に対する気づきのプログラムが必要になってくる。
探してみた。

たとえば、MYTREEプログラムがある。
でもこれは、教育虐待に特化したプログラムではないので、
このプログラムが日本中に広がっている「じわじわと進行するタイプの教育虐待」に活用できるかと言うと難しいように思った。
でも方法論などに応用可能性はあるかもしれないので、挙げておこうと思う。


私がやっているのは、ちょっと遠回りたけれど、
何十年もかけてみーんなの価値観を変えていくという方略。

こうして、こまめに文章を書いて、概念を伝えていき、ひろげる。
動画を作って広報したり、研修を行ったりする。
そうして、気づく人、共感者、賛同者を増やしていく。

人は気づいてしまうと、知ってしまうと、見える世界が変わるので、
新しい行動をし始める
(もちろん、そこには、アクションを促す仕掛けがあるのだけれど)。

対応や対策に取り組む人はきっといる。
だから予防に取り組む人も必要だと思っている。いや、思っていた。

でも、昨日、教育虐待をしてしまう人に対してのトレーニングプログラムや矯正プログラムはあるのか、と聞かれて気づいた。

ない。やっている人がおそらくいない。誰がやるのだろう?
教育虐待、やりすぎ教育、の言いたしっぺがやらなければならないのだろうか。いや、残念ながら、今の仕事量が自分のぎりぎりだ。
どなたか、ぜひ、取り組んでほしい。自助グループがいいのではないか。
私はこうして書いていく。プログラム案を出すことも可能かもしれない。
が、実際にそれをやる時間は取れそうにない。
どうしたらいいか、考えよう。

さて、もう一度、確認しておきたい。
教育熱心が、教育虐待に変わりそうになったら、

子どもがNOが言えて(あるいは誰かが代わりに言ってくれて)、
それを親が聞き取ることができて、
対等な関係の下で、お互いに納得できる解を得ることができればいい。

それで、子どもは傷つかずに済む。


教育熱心は、子どもがもう我慢できない!というときに、
それにもかかわらず、そのことに気がつかないで(あるいは気がついていても)大人がさらにことを進めようとするときに、虐待になるのである。


以前も書いたたとえで言えば、

子どもの好きなおいしい食べ物を用意して、食べなさい、と言うのはいい。
どんどん勧めるのもいい。
でも、子どもがおなか一杯、と言ったら、それ以上食べさせるのは止めなけらばならない。それ以上、おいしそうなものを出すのは止めた方がいい。
子どもは愛情がこもった食べ物、しかも好物、を食べてしまうだろう。

そして、おなかを壊すのである。
おなかを壊すまで、おいしいものを出し続ける、見せ続けるのは、子どもの心身を傷つける行為である。

どれだけの分量で教育虐待である、というラインがあるわけではない。
どこで子どもがおなかを壊すかはわからない。

子どもが「もういらない、無理」と言ったところで一旦停止して様子を見る必要がある。少し時間が経てば、OKかもしれない。

でも一方で、どんなに好きなものでも、毎日出てきたら飽きる。嫌いになる。毎日はやりすぎかもしれない。

今日は学校給食をたくさん食べて来て、もともとあまりおなかが空いていないのかもしれない。おなかの調子が今一つで、あまり食べられないかもしれない。そう推測して、配慮することが、思いやりである。

ケースバイケース、その日によっても違うのである。

自分だったら?と立場を逆にして考えてみて、
共感性をもって、子どもに接することを心掛けてほしいと思う。
相手を一人の人間として尊重したら、無理強いはできないはずなのである。

終わりに)
少人数の子どもを産んで、その子ども(たち)を丁寧に育てようという今の時代は、一人一人の子どもたちが大人たちから見えてしまうがゆえに、大人たちのコントロールが強い。でも、子どもたちは大人の言う通りではなく、自分らしく生きていきたいと思っている。
そのせめぎあいの中で、どれだけ大人たちが、子どもたちの成長を後ろで見守り、支える存在になることができるか。
前に立って引っ張るのではなく、後ろから下支えする、あるいはちょっと遠くの木の上に立ってみる(親という漢字の成り立ち)ことができるのか。

大人たちが変わることが求められている。

追記1)見出し画像の説明
個人や家庭に対して、ハイリスク、潜在的リスク、ローリスクというピラミッドを考えるのではなく、
環境に対して、ハイリスクの学校・保育園や地域、潜在的リスクの学校や保育園や地域、ローリスクの学校・保育園や地域、と考えて、
環境に対する対応を取ることが予防になるのではないか。

養育能力×環境資源で考えるわけである(あるいは、養育能力%+環境資源%=100%という割合で示すことも考えられる) つまり、その家庭が持っていない資源をどれだけ社会が用意できるか、という視点を持つことが必要である。

追記2)東ちずるさんの記事
振り返ることができるようになるまで、何年もかかったことと思います。
今、教育虐待を受けている子どもたちが、振り返ることができるようになるのは、何十年後でしょうか。





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#CAP #養育能力 ×環境資源
 




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