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小林賢太郎さんを応援します。

小林賢太郎さんについて
小林賢太郎さん(以下コバケンと略)は、日本を代表する元パフォーミングアーティストです。元ラーメンズというユニットでも活動していました。現在はエンターテイメントの裏方として活動しています。
テレビに偏らず、舞台を中心として、コントや演劇を自作自演してきました。
巧みな言葉遣いや、観客の普通を利用し非日常の日常を切り取った様々な作品は、一口にお笑いとは言えない素晴らしさがあります。
今回の件で「元お笑い芸人の」などと言われますが、彼と彼の作品を知っている方は、「まぁそうだけど、うーん」となったのではないでしょうか。

僕は、彼のことが好きなので、全面的に擁護したいと思っています。
好きだから、以上の理由はありません。
そもそも、彼は、犯罪者ではないですし、この程度の個人の主張は是正されることなく許されるはずです。
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さて、本題に入っていこうと思います。

まず、みなさんは、解任後のコバケンのコメントは見られましたか?
リンクを貼っておきます。

彼は、このコメントの中で、
「ご指摘を受け、当時のことを思い返しました。思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃だと思います。その後自分でも良くないと思い、考えを改め、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました。」
と語っています。

これは彼の本心であり事実です。画像を貼っておきます。

画像1

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これは、2014年に発売されている、コバケン著『僕がコントや演劇のために考えていること』です。
目次の中に、「人を傷つけない笑いであること」という節があります。

彼は、創作活動における自問自答の中で「人を傷つけない笑い」を追求してきました。
また、その節の文中に「他人の失敗や欠点などにふれて笑いにすることは、対象になった人を傷つけやすいため、危険なことでもある」と述べています。

ですので、まず知っていただきたいことが、彼が謝罪で語ったことは、全て真実である、ということです。
彼は、笑いとはどうあるべきか、人を笑わせることとはどうあるべきか、をひたむきに考え、変わることを求めて、実践してきた人なのです。

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続いて、セリフ「ユダヤ人大量殺戮ごっこ」についてです。

どのようなコントであり、
どのようなシーンでこのワードが使われたのか説明します。

・コントの設定
1998年 発表
NHKの教育番組「できるかな」のパロディ
ゴン太くんを演じる片桐仁と、ノッポさんを演じるコバケンが、
ありえないクレイジーな企画案を出していくコント
です。

・セリフ「ユダヤ人大量殺戮ごっこ」について
9分ほどのコントの中盤で以下のようなやり取りがあります。

ゴン太くん(片桐):ちょうどこういう人の形に切った紙がいっぱいあるから。
ノッポさん(小林):本当?ああ、あの「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」やろうって言った時のな。
ゴン太くん(片桐):そう、そう、そう、そう、そう。トダさん、怒ってたなあ。
ノッポさん(小林):「放送できるかっ!」ってな。

誤解されている方も多いのですが、彼らは「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」をネタとして行ったわけではありません。

クレイジーな企画を出していく過程で、絶対にダメなものを出して笑いを誘うという場面があり、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」を出してしまったのです。

問題になっているのは上記のやり取りのみとなります。
この他のコントで、これに類するセリフはありません。
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果たして、コバケンは、ここまで責められるべきなのか?

彼のコントを非難しているユダヤ人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターは、彼を反ユダヤ主義と言っています。

怒っているのが彼らなので、彼らの言葉に焦点を当ててみようと思いますが、
本当にコバケンは反ユダヤ主義と言えるのでしょうか?



主義とは、
1 持ちつづけている考え・方針・態度など。
2 思想・学説・芸術理論などにおける一定の立場。イズム。
3 特定の原理に基づく社会体制・制度など。

を指します。この場合、1に該当するかどうかが問題ですが、
前述の通り、彼の数多くの作品の中に、半ユダヤを持ち続けているような思想や方針、態度などは見受けられません。その他のインタビューなどにも、です。

したがって、主義として、認めることはできないし、主義として責めることはできない、といえるのではないでしょうか。
これで、主義を非難している当該団体の主張は崩れます。

ただ、反ユダヤ発言を行った事実は消せません。
さらに、1998年には(ビデオ販売という形で)許容された発言であったとしても、現在は通用しないことは言うまでもありません。

では、「軽率だった」「謝罪します」で、済まないのか?
これは、済む話だったと思います。

なぜなら、上記の通り、主義ではなく、その言葉に信念が無いからです。
「言葉選びを間違えた」に過ぎないからです。
立場も、政治家でもなんでもない一般人です。
反ユダヤ発言が、主義ではないことはすぐに分かりますし、未成熟な時期の作品であることも容易に想像がついたはずです。(当事者の誰かが説明をしていたら、ですが)

個人だから、済む、ということではなく、これは組織間の誠実なやり取りによって、炎上する問題ではなかったと言えるのではないでしょうか。

そもそも、防衛副大臣の不自然な通報があったときに、サイモン・ウィーゼンタール・センターは、冷静な対応も取れたはずです。
ここには、副大臣を監督できない日本政府の未熟さと、サイモン・ウィーゼンタール・センターの未熟さが表れているように思います。
どちらも文明社会が生んだ成熟しているはずの組織であるのだから、「個人」に焦点を当てるのではなく、組織同士の冷静な対話ができたら良かったですね。

また、サイモン・ウィーゼンタール・センターの非難から離れて、
「世界的に見て」という視点でも、コバケンが23年の間に変わろうと向き合ってきたことを誠実に説明していれば賛否はあるものの筋は通ったはずです。

責めることよりも、いかに許せるようになるか、
それが、ホロコースト(これを人権の問題とするならば)を再発させない社会の構築には役立つのではないでしょうか。
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最後に、
彼は、犯罪者ではありません。
23年前に国際的な配慮を欠いた過ちを犯しましたが、法律も犯していないし、五輪憲章にも背いていません。
本の紹介とともに示しましたが、彼はこの23年間、人を傷つけずに笑わせることを追求し、変われるように、努力を重ね、それを達成してきた人です。

かつては浅はかな言葉選びをしていたが、それに自分で気が付き、変わってきた人です。
これを、五輪憲章(オリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、 政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、 財産、 出自やその他の身分など の理由による、 いかなる種類の差別も受けることなく、 確実に享受されなければならない。)に背いていると、どうして言えるでしょうか。

「一度過ちを犯した人は、人格的に信用できない。」これは差別ではないですか?

人が変われることを、何人も否定してはいけません。
これは、ホロコーストの教訓よりも重要なことです。
人は、成長し、変わることができます。
人類も同様です。
成長し、変わり、ホロコーストが再び起きない世の中になっていくのではないでしょうか。

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ぜひとも、これを期に彼の作品を見てください。

小林賢太郎のしごと
https://www.youtube.com/channel/UCpbqG3t3wH0FSk2yFzsj1wQ

ラーメンズ公式
https://www.youtube.com/channel/UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig
(広告収入は、災害復興に日本赤十字社を通じて寄付されるそうです。)

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