6月2日

6月2日、父が他界した。

いつものように、デイケアに行き、いつものように帰ってきた。

車椅子で玄関まで連れてきてもらい、いつもならそこで立ち上がって、自分のベッドまで歩いていく。もちろん、私が介助する。

しかしこの日は、足を踏み出すことができず、本人も

「あれ?足が動かない」と言いながら、一歩を踏み出そうとしていた。

しかし足がどうしても動かない。このままではベッドまでは移動できないので、デイケアの運転手さんの手を借り、抱きかかえてベッドまで運んで寝かせた。そこで、運転手さんと付添の女性の職員の方が帰ろうと声をかけたが反応はなく、寝かせたときの表情で目を見開いたまま、動きが止まっていた。すぐに119番に電話しつつ、運転手さんと職員の方に声をかけ続けていただきながら、心肺蘇生を試みるも蘇生ぜず。

救急隊員の方が到着し、心肺蘇生を続けていただきながら、病院へ搬送していただいたが、そのまま帰らぬ人となった。

家にいる間に心停止したため、警察の捜査が入り、全て終わって家に着いたのが23時半ごろ。心臓が止まる直前まで会話してて、寝かせたときまでは、まさかこのような事態になるとは思わなかった。

若い頃の父は、スポーツ万能で、陸上や水泳、柔道や剣道、野球、栃木に来てからも、ソフトボールやゴルフなど、とにかく体を動かすことが大好きだった。

私が子供の頃は、父が寝込んでいることろなど見たことがなく、病気には全く縁のない人だった。体重は一番重いときで120kgあったにもかかわらず、町の運動会ではリレーで走ったり、ソフトボールで盗塁したりしてた。

120kgというと、一般的には肥満なイメージだけど、体型は力道山のような筋骨隆々だった。しかも、一時期はパンチパーマにしていたため、私の同級生などは誰も怖がって近づかなかった。


その父が、30数年前、母の付添で病院に行った際に、先生から

「旦那さん、そんな身体してたら、奥さんより先に逝っちゃうよ」

と言われてダイエットを始めた。

何かをやるときは、徹底してストイックにやり尽くす性格だったためか、わずか1ヶ月で30kgを減量した。当時は、最近のように水分とか塩分とか重要視されてない時代だったこともあり、

「俺は水を飲んでも太るから」

と、水分も摂らず減量した。その影響で、ゴルフ場で脱水症状になり病院に担ぎ込まれた。脱水症状はすぐに回復したが、それがきっかけで糖尿病を患うことになってしまった。そしてあとからわかったことだが、倒れたときに脊髄の一部を圧迫骨折していたにも関わらず放置してしまっていたため、晩年苦しむことになった。

それまで、プロレスラーのような体力を誇った父が、その頃を境に次第に風邪を引きやすくなるなど、体力が落ちていった。

糖尿病で視力が衰えつつも、大きな病気もなく70歳ごろまで過ごしてきたが、12年前に母が他界した。気落ちしただろうが、その後も一人で家事をこなして暮らしていた。

しかし、肺炎、大腸癌などを患いつつも、乗り越えて元気にしていたのだが、3年前の3月、突如高熱に襲われた。動くこともままならず、しかも夜だったため、救急車で病院に搬送してもらった。診断は肺炎。点滴で薬を投与して、1週間以内には回復するでしょう、との先生の言葉にホッとしたが、2週間たっても症状は変わらず、間質性肺炎の治療薬に変えて症状が安定した。その薬の量を増やすと、肺は良くなるが、血糖値は急上昇するため、血糖値と肺の写真とをにらみながらの生活になった。その入院のときに、約3週間も体を動かすことができなかったため、足腰が急激に衰えてしまった。

その頃から、わたしが介護することになった。

ケアマネージャーさんにいろいろ助けてもらいながらだったけど、そのときはまだ自分で食べたいものを用意し、トイレにも行けた。なんとかこのまま生活していけそうな状況になった。

が、たびたび熱を出したり、腸閉塞を起こしたりで、何度か入院した。短期間の入院だったが、入院するたびに、脚元がおぼつかなくなっていった。

そして、昨年7月、いつもの検診で発覚した肺がん。

いつものように肺炎で白くなった写真見ていた先生が、

「あれ?」と指差した。

肺炎のため白くなっていたので発見が遅くなった。早期に発見できていたところで、肺は常に肺炎状態で、治療の方法はなかったが。

肺がんがわかっても、体の状態はいつもと変わらず、夏を乗り切りかけた9月2日、以前から痛かった左足と腰に激痛が走るようになった。

その後は弱っていくばかり。施設に入所はしたくないというので、私が介護するようになった。GWのあたりから、日に日に老衰の症状が素人の私でもわかるようになってきて、6月になってから主治医の先生と相談して最後の入院をと考えていた矢先だった。


生前、たくさんの方々にお世話になり、ありがとうございました。父も、お礼もできず心残りだったかもしれません。

最期が私の腕の中だったこと、全く苦しむことがなかったことがせめてもの救いだったかもしれません。

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