〜ズラタン・イブラヒモビッチから学ぶ圧倒的な自信と自分の貫き方〜


サッカーに携わっている、またはサッカー経験者でズラタン・イブラヒモビッチという男を知らない人はいないんじゃないか。
彼は紛れもなく世界最高のプレーヤーの一人であり、世界で最も魅力的なプレーヤーの一人でもある。
そんなイブラヒモビッチが生まれたのはスウェーデン。
僕自身5日間スウェーデンに滞在したのだが、スウェーデン人は比較的周りに合わせる国民性を持ち、日本にどことなく似ている印象を受けた。
そこで素朴な疑問が生まれた。
「この日本みたいな国でどうやってイブラヒモビッチというキャラクターが生まれたのだろう?」
そこでスウェーデンの友人にイブラヒモビッチにまつわるエピソードを聞いてみる事にした。
彼はスウェーデン第3の都市マルメで生まれたが、ボスニア人の父親とクロアチア人の母の間に生まれたのでスウェーデンの血は引いてない。
移民の息子としてゲットー(スウェーデンの貧困地区)で育った。
子供の頃はお金がなく、1日3食パンだけで過ごしていた時期もあり、やせ細った少年だった。
6歳でサッカーを始めると一気に才能が開花し、6点ビハインドの試合で途中出場し、9得点あげたという逸話も残っている。
そんなイブラヒモビッチだが、周りの風当たりは厳しかった。
スウェーデンではサッカーはお金がある家庭の息子がするスポーツで移民のイブラヒモビッチがプレーしているのをチームメイトの親が認めずチームを退団させられたこともあり、チームの和を大切にするスウェーデンで彼の自己中心的とも映るプレースタイルは受け入れられなかった。
しかし、イブラヒモビッチは常に自分を信じることをやめなかった。逆境を物ともせず力に変えた。
1999年にマルメFFでトップデビューを果たした時の事、チームは2部降格、しかし、まだチームでレギュラーを掴めていなかったイブラヒモビッチはチームに残留する事にした。その時にテレビの取材で発した言葉がこれだ。
「俺はスウェーデンのベストプレーヤーだ。なぜ監督は俺を呼ばないんだ?」
イブラヒモビッチは2部リーグで控えの選手だった時からイブラヒモビッチだったのだ。
当然周りはイブラヒモビッチを笑った。バカにした。
彼を嫌う人も山ほどいた。
チームメイトも全員彼を嫌った。
しかしイブラヒモビッチはそれを全く気にもとめず26試合で12得点をあげチームの1部昇格に貢献した。
そしてその活動を耳にしたオランダのビッグクラブ、アヤックスが当時のアヤックス史上最高額の10億2200万という移籍金を支払い、イブラヒモビッチを獲得したのだ。そして、アヤックスで初めての練習で、当時19歳の少年だったイブラヒモビッチはスタープレーヤーを前にこう言い放ったそうだ。
「お前ら誰だか知らないが今日から俺がボスだ。俺にボールを集めろ。」
彼はスタープレーヤーを前にしてもその自身が揺らぐ事は全くなかった。自分が何者でもない時から、彼は自分を信じ続け、自分の信じる道を選んだ。そして、ユベントス、インテル、バルセロナ、ミランというビッグクラブでプレーする選手となった。
彼はバカにされようが、嫌われようが新聞になにを書かれようが常に自分が一番だと周りに言っていた。
それこそが彼が一番になれた理由だ。
以前インタビューでかれはこう言っている。
「最近周りで「ズラタンは大物になると分かってた」とか「ズラタンにサッカーを教えたのは私だ」とか「僕はズラタンと親友だった」なんてほざく奴が多い。うんざりだ。このころはだれも俺のことなんて見ちゃいなかった。家をノックするビッグクラブなんてなかったし、俺はただの鼻垂れ小僧だった。「このチビ才能あるから手放すな」なんて言われたこともなかった。というか、「誰がこのゴキブリ野郎を入れたんだ?」って邪魔者扱いだったぜ。」
イブラヒモビッチは強烈な反骨心で成り上がった。逆境はチャンスなんだ。貧乏で、いく先々でゴキブリのような扱いをされ、認めて貰えず、なおかつバカにされて強烈に悔しかったのだろう。しかしイブラヒモビッチはそれで諦めることなく、心の中でこう言っていたに違いない。「まあ、好きなだけ言ってくれよ。けど、最後に笑うのは俺だからな。」
人生では必ず苦しい時がやってくる。言い訳を見つけて諦めることもできるし、それに対抗することを選ぶことも出来る。
人生全て自分で選べるんだ。
言い訳するな。
自分を信じろ。そしてやってやれ。周りに合わせて自分を殺していたら絶対に欲しいものは手に入らない。そうイブラヒモビッチは教えてくれてくれている。



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