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6. 東大生は調査だけ

1991年4月、私は晴れて東京大学に入学しました。
友人が皆、部活やサークル活動で交友を広げる中、最初のゴールデンウィークに私は一人で熊本県水俣市を訪れていました。高校時代から環境問題に興味を持ち、学校で割り箸を竹箸に変える活動を行ってみたり、pHセンサーを使って酸性雨調査を行ったりしていました。水俣病の本は何冊も読んでいたにも関わらず、現地を見たことがなく、現地に行きたいと思っていました。

行きの機内で、「水俣病が発生してもう30年以上経つのに、今更行って何になるだろう」と思いながら熊本空港に着陸したのを覚えています。ですが、それは大きな間違いでした。水俣病は「今の問題」でした。(なお、2021年の現在でも様々な水俣病対策が行われており「今の問題」と言えるでしょう。詳しくはこちら→ https://www.env.go.jp/chemi/minamata.html )

胎児性水俣病の患者、ご遺族、水俣病患者を支援する団体、水俣病の悲劇を演劇で伝承する方々、水俣病を忘れたい・消したいと考える人々、・・・。本当に多くの方とお話をしました。病気や不自由な生活との闘いだけでなく、国やチッソ社との闘い、地域内の差別との闘い、風化と発信の間の心の揺れなど、問題の構造は複雑でした。

その中で、ある方の家を訪問した時、土間に座ったお爺さんに「東大生って本当に調査ばかりだな」と言われました。ハッとしました。有害な物質を海に垂れ流したチッソ水俣工場の幹部も東大卒が多かった、そしてその後調査に多くの東大生が来ていたとのことでした。

私の訪問は調査ですらありませんでした。個人の好奇心で訪問しただけです。このときに、「調査するだけの人間は評価されない。ものごとは解決せねばならない」と腹の底に染み渡りました。

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水俣で過ごした4日間は晴天。みかんの白い花が咲き乱れ、良い香りがしました。海もそこで沈む夕日も美しく、水俣湾で取れた魚はとても美味しかったです。ですが、私の心は複雑でした。汚染された水俣湾の広大な埋め立て工事がちょうど終わって、エコパーク水俣なるものの工事が始まるところでした。高台から、行き交うトラックを眺めながら、「私はこのままではいけない」と思いました。

 そこから4年弱経ったとき、1995年1月、阪神大震災が起きました。直下型大地震で、多くの命が奪われましたが、ご多分に漏れず私も親族と実家を失いました。東大の大学院に進み遺伝学の研究を続けることが決まっていましたが、心に迷いが生じます。仕送りがなくなったというのもありますが、何よりこれから数十年間、アカデミアの世界で研究を続ける自分をイメージできなくなったのです。
 
 春が過ぎ、大学院に進んで少したったある暑い日、渋谷の本屋さんの奥の洋書のコーナーに一人のアジア人男性をみかけました。痩せ型の40歳前後。ぼろぼろのグレーのスラックスと白いシャツ。彼は英語版のNewsweekを立ち読みしていました。英語の勉強をしたいのにお金がなかったのでしょう。汗を書きながら、声に出しながらずっと読んでいたのでした。頭を縦にも横にも何度も何度も振り、必死で英語の文章を覚えていました。彼が握りしめるNewsweekはもうボロボロで、売り物になりません。彼は何時間そこにいたのかわかりません。その光景は異様とも思えるほどでしたが、私の脳裏に焼き付きました。彼は何かから抜け出したかったはずです。

 私も何かから抜け出したかったのでしょう。研究をやめ、官僚になることにしました。国家公務員試験を受け、当時の大蔵省に入ると決めました。東大の生協で大量に法律の本を購入し、体重を5キロほど落とし集中力を高めてから、法律と判例を全部覚えると決め、6ヶ月ほど、あの時に見かけた男性ばりに勉強し、私は実際に大蔵省に入ることになりました。

東大生は調査だけではないのだと、言わしめるための、やっと最初の第一歩が始まった気がしました。


次回は「宇宙のロードサービス」をお送りします。

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