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「インプロの稽古」の話

最近また劇団での稽古熱が上がってきている。
とにかく気付かされることが多い。
ここで得たものが日常生活や他の活動、仕事などに生きてくれるとよいのだが…
ただ、無理にそれを頑張ってしまうと、インプットの感性がまた曇りそうでもあって、なかなか悩ましいところ。

劇団員として、稽古を受けているわけですが

劇団ClownCrownの劇団員になったのは2017年の春。
もうすぐ2年になります。
「人前に立つことを仕事に選ぶのなら、その質を高めなければ」と感じ、完全に ならいごと 感覚で始めた 演劇 。
何度か本公演の舞台にも立ち、少しずつですが、人前に立つことの質も、マシになってきたような気はしています。

今日もワークショップでインプロ系の稽古をしたのです。

最近のレッスンは、稽古やワークショップの質を「ドラマ型」 …客観的にどう見えたかも大切だけど、内に生じた印象や感情や気づきにフォーカスしよう、 というコンセプトで組んでいるようです。
はい、たしかに。
ものすごく気付くことが多いです。

関わる、ってのが兎に角むずかしい。

確か火曜日の稽古だったか、他人を見る、他人を観察する、他人と関わる、という段階を踏んでいくレッスンがあったんですね。
それが本日のインプロの稽古とも、深く連結していたのですけれども。

インプロの舞台。
きちんと関われば、そこに関係が生まれ、何かしら湧いて出てくるもので、台本なんてなくても舞台はなんとなく成立していくものだ。
でも、関わりが希薄だと、先に進めないし、なにも生まれない。そこに1人の人がいて、もう1人の人がいる、それだけだ。

火曜日のワーク。
稽古場には、ただ向き合って相手を見ていることに我慢できず、関わってしまう、関わらずにはいられない人がいた。
一方で、関わるターンになっても、うまく相手と関われない自分がいた。かなりぎこちなく、アクションやメッセージを出さないと、「関わる」っていうフェーズを自然に実践できない。

再び、きょう。
インプロの舞台上の俺は、やはり相手と自然に関わることができていない気がする。
座り板付で始まる舞台。「無理にドラマ起こさなくていい、自然でいいよ」という演出家。

何もできない。

関わる ってことに対して、そして自分が周りとどのように関係しているのだろう、ということに対して、とても深く考えさせられる。

「大喜利できるんだし、インプロいけるっしょ」

と言われたことが、これまでに何度もある。
「そうっすかねぇ。」と、なんとなく、はぐらかして返事していた。
今なら言える。「とんでもないです。」と。俺、インプロ、全然ダメな気がしますわ。

どちらも即興性を求められる「インプロ」と「大喜利」ではあるものの、今はその違いを強く感じていて。

「大喜利」の、言語化・記号化された問い に 答える っていうフォーマット、こんなにも簡単な構造なんやな、と。
1つの問い、に対する一つの解、で一旦完結し、コンテンツを区切ってくれる大喜利。に対して、セカイの中で脈々と変化し、イマココを求められ続けるインプロ。

素敵な印象だけで言えば、インプロ、難しい。それに比べれば、

大喜利よ、(構造だけで言えば、)なんと単純なことか。

やっぱり一般向けのコンテンツにするのに向いてたなぁ、大喜利は。
俺のここ数年の判断は間違ってないな。
という「自信」に勝手に繋がったりもしている。

で俺よりも演劇ができる人たちのなかで、下っ端として学べるこの環境、ほんとうに、有り難い。

自身もくれて刺激もくれる。今、俺にとってこの劇団との「関わり」は、いい感じ。

でも、自然にうまく人と関わる方法は、今のところ、よく分からないままだ。

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