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のぼ〜る広報のイチオシ〜東京ヤクルトスワローズ投手編〜

 本記事の筆者・のぼ〜る広報が、各チームのイチオシ投手と野手を1人ずつ紹介シリーズ、題して「のぼ〜る広報のイチオシ」。曜日は具体的に決めていませんが、随時更新していくシリーズものとなりますので、投稿した際は気にかけてくださると幸いです。第3回は、昨シーズンにプロ7年目にして念願のプロ初勝利を挙げた、燕の苦労人・小澤怜史選手です。

小澤選手ってどんな人?(能力)

 初めて目にした方々は「小澤」を「おざわ」と読んでしまいがちですが、彼の場合は「こざわ」と読みます。小澤選手を見た時は、ぜひユニフォームの背ネームにも注目してみてください。
 1998年3月9日に静岡県三島市で生まれた小澤選手は、身長181センチ体重81キロ(Wikipedia情報)と、プロ野球選手の中では平均的な体つきをしています(それでも180センチは羨ましい)。
 日大三島高校では現在社会人野球・パナソニックで活躍中の、1つ上の兄・拓馬さんと共にチームを引っ張ってきたものの、3年時は2回戦で静岡高校に敗戦。しかし、高卒ながら最速152キロを誇るストレートが彼の人気を引き立て、2015年にソフトバンクからドラフト2位指名を受けました。
 豪速球でエースになることを期待されていましたが、18年に首や肘を故障すると、同年オフに戦力外。育成契約から支配下への再登録を目指しましたが、20年に再び戦力外通告。
 しかし、ここで小澤選手は諦めませんでした。同年オフのトライアウトに参加すると、なんと三者三振。3人しかチャンスが与えられない場で、小澤選手は最高の結果を残しました。すると、ヤクルトから育成契約のオファーが。
 その後、21年はファームで結果を残すと22年の夏場に支配下登録。7月3日のDeNA戦でついに初勝利を挙げました。オフには背番号を「70」から「45」に変更することが発表され、来年のより一層の活躍に期待がかかります。

小澤選手ってどんな人?(エピソード)

 ヤクルトからのオファーを受けて入団した小沢選手ですが、その指揮官である髙津臣吾監督と小澤選手の対面はなんとこれが初めてではありませんでした。
 小学校3年生から野球を始めた小澤選手。その年の秋に開催されていた野球教室に、なんと当時まだ現役だった髙津"選手"が教えに来ていたのです。あの頃は間近で見ていた現役の選手が、今では自分の属するチームで敏腕を振るっているのは、なんというかエモい話ですよね。
 さらに、プロ入り当初はオーバースローだった小澤選手でしたが、以前まではキャッチボールなども横手投げだったそうで、髙津監督との共通点も感じますね。ヤクルトに入団した21年に、小野寺力ピッチングコーチのアドバイスによって再びサイドスローに再転向したのですが、これが功を奏した形になりました。小野寺コーチとの試行錯誤の末、オーバースローで最速150キロを超えていたストレートの質も落とすことなく、150キロ台をサイドハンドから出すことができるようになりました。
 数奇な運命と実力によってヤクルトに吸い寄せられた小澤選手には、23年シーズンも神宮で白星を積み重ねていってほしいですね。

小澤選手のここがイチオシ!

 筆者が小澤選手の推しているところは、

何度だって諦めない精神力・工夫力と、サイドハンドから放たれる気持ちのいいストレート

 です。先述した通り、小澤選手はソフトバンクで実質2度の戦力外、いわゆる「クビ」を宣告されてもトライアウトで圧巻のピッチングを見せました。その結果能力を買われ、ヤクルトに入団。そこでも甘んじることなくピッチングフォームを試行錯誤の上変え、7年という長い年月をかけてプロ初勝利を達成しました。人間、ここまで諦めずに努力できる人はそういないと思います。これだけ苦労しての初勝利だっただけに、その喜びは本人にとってはひとしおだったことでしょう。
 その小澤選手の武器はやはりストレート。本記事で何度も申し上げている通り、小澤選手のサイドから出るストレートは見ていて気持ちがいいです。「豪速球」というよりかは、「快速球」というようなイメージでしょうか。このストレートがあることによって、空振りを奪えるスライダーも活きてきます。

 以上が、小澤選手の紹介でした。いかがでしたでしょうか。プロ初勝利を挙げた時の気持ちを忘れずに、23年シーズンは1年間ローテーションを守ってほしいです。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

出典

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