お金の概念が変わる時。変えなければならない時期にきている。

現在の「お金」の概念は常識のように思われているが、自然物ではなく、人間が生み出した人工物である以上、概念や役割は変わっていくもの。お金は自然法則ではなく、不変の真理でもない。そんなお金が一部の人類を苦しめる存在になっているのが、現代のお金の姿だ。お金は腐らない。貯蔵可能なもの。これがモノとモノの交換経済が主だったころには、肉や魚、野菜等、腐ってしまうものを時を越えてその価値を保存させるために効果的な道具であった。そして家を建てる大工や服を作る服屋、医療等のサービスの価値を物質化するためにもお金は重要な役割を果たした。

現在においてももちろん、生鮮食品や数々のサービスがお金に価値を変え、お金でやり取りがされている。日本においては過去の時代よりも確実に豊かになり、平和になっているはずなのに、「お金」によって苦しんでいる人が多くいることを知ると胸が痛む。

本来は人々の生活を便利にするために生まれた道具が、今ではある人々、そして少なくない数の人々を苦しめる道具になっていることは皮肉な話である。日本において、十分なお金を得られていないのは、自己責任であると言われる。働いていない怠け者だと思われる。

果たして、そうなのだろうか?まだ物質的に豊かでない時代には、「働かざるもの食うべからず」であったのかもしれないが、これまで物質的に豊かで、むしろ食品破棄が問題になっている現代の日本で、お金がないことによって苦しんでいる人が一人でもいる、というのは考えることがあると思う。

今のお金は物質的なものと対応が取れていない。物質的なものよりも多くのお金が世界に流れている。古くにはお金は情報でもあるが、物質的なものと比較的距離が近かった。しかし、現代ではお金はほとんど情報になっている。日本の借金の額分、物質的なお金が刷られているわけではない。硬貨や紙幣は額の中のほんの一部で、すべては数値でやり取りがされてしまう、情報である。

このような物質空間から乖離したお金に苦しめられている人々がいる。本来、必要とされている、生命の危機にある人々にお金が渡らない一方で、生活は十分に満たされていて、その生活をより豊かにするためにお金を得ている。この豊かな人たちにお金が渡らなくなればいい、となんて思っていない。社会に有益な価値を生み出しているのだから、当然、より豊かになってほしい。

お金は情報としての数値をいじるだけで、生み出せるのだから、必要としている人には渡すべきである。すでに生み出されているお金、豊かな人に流れているお金は、貯金や投資によって、物質世界にはほとんど還元されない。多くのお金が持っている人がその分食べて、服を着て、車にのって、旅行をしてくれればいい。ただし、多くのお金を持っている人でも、人間である。一日に貧しい人の100倍の食料を必要とするわけではないし、一日の時間は24時間である。フランスに旅行に行っているときに、同時にアメリカには旅行できない。だから、豊かな人にはより溜め込まれる前提で、お金に困っている人含め、お金を渡しても良いのではないだろうか。結局、お金が溜め込まれてしまうのも、未来に希望がないから、将来の不安から溜め込む。

「国の財政は健全であることがよい」と思われているが、本当にそうなのか。お金は国が供給しなければ市場には増えないもの。我々は手にできないもの。確かに国の借金は多いが、多くは溜め込まれて、市場に出てこないお金なのではないのだろうか。あるが、ないお金。そして溜め込んでいるのは豊かな人々。市場で流れるお金、生命の危機に瀕している人にとって、お金があれば、それは流れる。その流れたお金は生活に身近な企業を助ける。日々、お金が流れるようになると、未来にも多少なりとも希望が見えるようになるので、溜め込まれたお金が出てくるかもしれない。

流れるお金がもう少し増えていい。そして今の生活必需品の生産、インフラを整備するにあたって、必要な人員の数は少なくなっている。皆が労働からお金を稼ぐことが難しくなっているこの時代。働かなければ得ることができないお金から、働かなくても得られるお金、という概念に変わる時なのではないのだろうか。そんなことを思う、冬の一日。


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