価値とは

人は価値があるものがほしい。価値が上がるものに魅力を感じ、その価値あるものを保有し、独占したいと思う。現在ではその価値は金銭に結びつく。その価値をカネに変換できる。カネに価値があるのは、現在社会のほぼすべてのモノに価格がついており、さらには労働にも価格がついていて、これらはすべてカネによって取引することができる。したがって、カネを多く持っている人の方が、カネが少ない人に比べて、自由度が高いと言える。また、労働というのは現代社会では義務のようになっており(本当であれば義務を無くせるのに)、それゆえに労働によって高い賃金を得ている人は、価値が高いようにも見られてしまう。価値がカネと結びついている以上、一般的にカネを集めた場合、社会への価値を生み出しているということに繋がるので、社会への貢献という評価軸で考えた場合は、確かに社会に対して高い貢献を示しているともいえる。しかし、社会というのは複雑系であるので、本当に社会の為になっているかはわからない。ただ、今の時代で多くの人間に必要とされている価値を提供している。また提供している価値がその人にしかできないものなので、希少価値が高い。一方、人間の価値という時点で考えた場合は、別に価値は高くない。そもそも人間の価値ということを一つのモノサシで表すことができないが。しかしながら、現在の社会では様々な価値を暗黙の了解というか、空気によって、カネの評価軸しか見れないようになっている。というかカネでの取引が大きすぎるので。

そもそも人間は誰一人として価値を生み出していない。価値を生み出していると思っているモノの素材は、自然、地球が作っているのであり、人間はそれを搾取し、加工し、人間にとって都合の良いものを作っているだけである。別に地球や人間以外の生物にとって価値あるものを作っている訳ではない。人間社会の中だけで完結する価値。便利になったら嬉しいけれど、内輪だけの価値でしかない。

ただこの価値観の枠組みを否定しまったら、生きれらないので、人間社会の内輪での価値は認める必要はある。ただ、一歩引いて見ることは自由にできる。我々は人間社会の枠組みの中でしか、価値を考え、その価値をモノとして創ることしかできない。地球や他生物にとって良い価値は生み出すことができない。

織田信長は茶器に領土に代わるような膨大な価値を付与し、戦国の世を統治した。この時の茶器のメインは唐物である。唐物から国産の茶器に価値を移していった、というか、国産の茶器を開発したのが千利休である。侘茶に美を見出した。茶杓の素材は象牙などだったが、それを竹に代え、この竹製の茶杓に価値を付与した。そして竹製の茶杓の中心部に、これまでは避けられていた節の部分を大胆に用いた。更なる新しい価値を付与している。
西洋では煌びやかな貴金属に価値が置かれていた中で、茶器に宿った価値は日本独自のものであり、他文化の人にとっては理解が難しいものであっただろう。貴金属には見た目の煌びやかさ、永続的な不変性(特に金は錆びない)、希少価値といった分かり易い価値がある。この時代の日本にも勿論、貴金属はあったが、そのような貴金属に替えてでも手に入れたかったのが、竹の茶杓や土の茶碗である。そしてそのような利休が愛した茶器は現代においても、勿論価値がある。価値としては、今日までの時間による歴史的価値が上乗せされている。しかし、カネを払ってでもその茶器を手に入れたい人は少数かもしれないし、人によっては投資品としての価値として考える人もいるだろう。今日からでは、利休時代の茶器に向けられた熱狂、狂気を知る術はないし、たとえ知れたところでも、現在の価値観を知ってしまっている私には真にその価値を知ることはできない。多くのモノの価値は時代の変化、価値観の変化で、変わっていく。

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