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「暑いかどうかは俺が決める!」〜Tシャツとランニングシャツ事変〜

この間、息子とばあちゃんが何やら揉めていた。

息子は小学校の制服の下に白いTシャツを着ているが、ばあちゃんは「ランニングシャツを着ろ」と何度も注意してるらしい。

ちなみに先に言っておくが、この物語では「Tシャツ」と「ランニングシャツ」は全くの別物としてお送りされるので注意していただきたい。

袖があるかないかという微々たる違いじゃん。と甘く見ないほうがいい。当たり前のように全く別の異物として扱われていることに違和感を抱かないように。

では話に戻ろう。

何故か、何度もランニングシャツを強要される息子はそれでも「Tシャツで十分だよ」と譲らない。するとばあちゃんもムキになる「いやいや、Tシャツは暑いでしょ。ランニングの方が涼しいんだから」と反論。

息子も負けじと「いや、大丈夫だから」と冷静に答える。お互い一歩も譲らない様子。

ばあちゃんも最後の切り札として「汗疹(あそも)ができるから」と息子に浴びせる。

しかし、息子は「暑いかどうかは俺が決めるんだ!汗疹(あそも)も出来てないし!」と鋭い一言でばあちゃんを撃退。

その堂々たる態度に、僕も心の中で拍手喝采した。

最終的にばあちゃんは「Tシャツがあるから着てしまうんだ!捨てたらいい!せっかく私がランニングシャツ買ってきてるのに!」とプチ切れしていた。

ばあちゃんは親の仇かのようにTシャツを嫌って、ランニングシャツ教に入信したのかというぐらい信じて疑わなかった。何なんだろうその熱意。

しかしまぁ、これはこれで良い教訓になったなーと僕は思ってる。今回は孫と祖母の話だったけど、親と子の話としても全然あり得る。

大人が勝手に子どもに対して余計なお世話をするせいで、子供が''決断する機会''や''失敗する機会''を奪ってしまう。それだけでなくシンプルに構われすぎてウザい。放っといて欲しい。それがチリツモになって親がウザい、祖父母がウザい、大人がウザい。よくある話だ。

ちょっと汗疹(あせも)ができてもなんてことない。傘を持っ忘れても濡れて帰ってくりゃいいし、夏休みの宿題なんて間に合わないほうがむしろ実際は学びは多そうである。

子供を愛するあまりと言う声もあるだろうが、愛することは決して余計なお世話をやりすぎることじゃない。恋人関係でもそうじゃないか?彼女に束縛されまくったら嫌やし、自分の意志を尊重してくれない奴なんてモテないし、そんな危険を先回りばかりして失敗のない恋なんて楽しいだろうか?ちょっとしたトラブルや事件があったほうがむしろ恋は燃えるでしょ?

親子関係もそれと似たようなもんだろうな。

ちなみに、僕が子供の頃は制服の下にTシャツもランニングシャツも着たくなかった。なんか確か肌着=ひよってる=ダサいみたいな変な方程式があった気がする。

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