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三国志13 蜀志劉備伝 #3

武官登用

184年4月

 多年にわたり大規模な戦闘が殆ど無かった官軍には実戦経験が乏しく、多くの兵を率いることができる優秀な武官の登用は、『黄巾の乱』鎮圧が本格的に動き出す前の最優先課題であった。
 更に官軍を悩ます理由がある。当初、『黄巾の乱』は『太平道』という道教の宗教指導者『張角』が起こした小規模な農民反乱であったが、腐敗した朝延に弾圧されていた知識人や地方武官を吸収し始めると、単なる農民・盗賊の寄せ集めから、組織化された武装勢力へと変貌し、鎮圧することが難しくなっていたからだ。

 
 『幽州刺史劉焉』は配下の諸将に対し、武官の登用を指示、劉備もまた『幽州』の都城『薊』の【街中】にて有能な武将の【調査】を始めた。十日間の調査の結果一人の武人『呉巨』の噂を聞きつけた劉備は、【政庁】で『劉幽州』にその存在を【報告】すると、その【登用】を提案した。『劉幽州』から承認を受けるとすぐ【街中】に戻って『呉巨』を【訪問】した。

 面識のない人に会うのは非常に難かしい。通常であれば誰か面識のある他の人物から紹介してもらうのだが、劉備のもつ不思議な【人徳】は初対面の人物でも不思議とその警戒心を解いてしまうのだった。
 

 『呉巨』は武人であった。少し話してみると、関羽、張飛に比べると武では遥に及ばないし、あまり賢くはなく性格はやや小心で強欲ではあるが、豪族の出身であることや、従軍経験などから少なくとも5千人の兵士を率いることができるようだ。
 それ程有能な人物というわけではないが、兵士を率いることができる武官がまだ数えるほどしかいない劉焉の陣営には必要な人材に違いない。

 「呉巨殿、黄巾の乱鎮圧の為、そのお力をお貸し下さい」

 「劉備殿、我が力非才なれど劉幽州の為に死すことも厭いませんぞ」


 劉備は呉巨に『黄巾の乱』鎮圧の為に協力を求め、劉焉陣営への仕官を勧めると、『呉巨』はその場で快く承諾したのだった。

 劉備は『呉巨』を伴って、『劉幽州』に拝謁し武官登用の成果を報告した。『劉幽州』はいたく喜んで褒美をつかわし、劉備の功績に対し『七品官』への昇格を認めたのであった。
 これにより劉備は政策・軍事・内政いずれかの主導的地位である重臣に就任することができるようになった。

 加えて『劉幽州』は劉備に一度限りの【特権】も与えた。これは、今の劉備の低い地位であれば到底聞き入れて貰えない外交や出兵などの重要政策に関与できるというもので、大変名誉なことである。
 

 この【特権】の使い方を劉備はもう心に決めている。あとは『劉幽州』に提案を切り出す絶好の機会を待つのだ、そう自分に言い聞かせると、劉備は決心を打ち明ける為に二人の義兄弟もとへ向かった。

用語説明

『黄巾の乱』・・・ 漢帝国末期(184年)に太平道の教祖である張角が主導した大規模反乱。反乱軍は目印として頭に黄色の頭巾を被ったため黄巾賊と呼称される。漢帝国が滅亡することになる遠因の一つ。

『太平道』・・・ 道教の一派で張角が創始した。張角が南華老仙から授かったという太平要術の書をもとに、符呪によって病を治癒するなどで信仰を得て、華北一帯に数十万人の信徒を集めていたとされる。

『張角』・・・ 黄巾党の首魁で太平道の創始者。天公将軍と自称し漢朝の転覆を画策、太平道の信徒数十万人を扇動して黄巾の乱を起こさせる。弟の張宝、張梁を将軍にして華北一帯に勢力を広げている。

『幽州刺史劉焉』・・・ 姓名は劉焉、字は君郎。漢室の末裔で幽州を統べる刺史(行政長官)であり、本拠地を薊に置いていた。文官としての才能には秀でるが軍事には疎い。その為、黄巾の乱鎮圧を前に優秀な武官を必要としていた。性格は冷静沈着だが強欲。子に劉璋がいる。

『劉幽州』・・・ 幽州刺史の劉焉のことをさす敬称。中国では名は諱(いみな)として呼ばれることは特別な時であり、字か官職で呼ばれることが多い。例、劉幽州(姓+官職(任地の地名など)。

『薊』・・・ 幽州の都城の一つで幽州の州都。北平の西、南皮の北西、中山の北東。現在の北京にあったと推定される。

『呉巨』・・・ 後漢末期の武人。戦場では弓矢を防ぐ術を持つ。騎兵を率いた経験がある。性格は小心で強欲。

『七品官』・・・ 九品官人法をもとに設定された官職の位。軍師、軍事、内政における重臣として任命されることが可能となる。重臣として任命されれば各種政務を主導し政策を立案できる。

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