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三国志13 蜀志劉備伝 #4

初陣

184年5月

 『幽州刺史劉焉』は機嫌が良かった。密偵から帝都洛陽の官軍主力がやっとその重い腰をあげて黄巾党鎮圧の為に北進するとの情報が届いたのだ。劉備はその様子を見て今が好機と【特権】を使い、『劉幽州』に都城『中山』の攻略を提案した。

 劉備は攻略と進言したものの、その内実は救援であった。『中山』は華北の要衝で劉備の祖先『中山靖王劉勝』の封地、縁のある場所でもある。黄巾の乱勃発後、黄巾党の本拠地『鉅鹿』に近いことから、その暴威を恐れて『太守』が逃亡してしまい権力の空白地帯となっていた。

 権力の空白は治安の悪化を意味する。心ない者達によって盗み・殺しは頻発し、黄巾党の脅威も迫っていた。『中山』の民は困窮し、毎日恐怖に震えながら暮らさざるを得ない状況に陥っていたのだ。劉備は『中山』の縁者からその窮状を知らされ胸を痛めていたのだった。

 『中山』を制すれば官軍主力と黄巾党の本拠地『鉅鹿』を挟撃する形にもなり、『劉幽州』の功績にもなるとその利を説いて、劉備は『中山』救援に向かいたいと『劉幽州』に願い出た。

 

 「劉幽州、中山の民を救うべく中山への出陣をお許し下さい。」

 「よかろう、お主がそこまで言うのなら、中山へ直ちに出兵するがよい。」

 5月6日、『劉幽州』の出兵許可を得た劉備は、総勢二万の兵を五千の四部隊に分けて、それぞれ関羽、張飛、呉巨と自分に編成し、行軍二十一日の道程を『中山』へ向けて出陣した。

 5月12日、劉備勢は『中山』へ到る中間の要衝『河間』の地で、『南皮』より迎撃に出た敵主将『程遠志』、副将『鄧茂』率いる一万四千の黄巾党と遭遇した。

 『程遠志』の騎馬兵約八千は『鄧茂』の約六千に敵本陣を守らせて出陣していた。劉備勢が設営した空の陣地を狙って進軍中と物見からの報告をうけた劉備はすぐに行動を起こす。本陣に呉巨の騎馬兵五千を残し、関羽、張飛と共に主力一万五千を率いて、『程遠志』と『鄧茂』を中継する敵陣を強襲し、その連携を断ち切ったのだ。

 5月18日、二分された黄巾部隊を各個撃破するのに、劉備はまず敵主将に狙いを定めた。そして『程遠志』が陣攻略に無中となり後方の警戒が疎かになっていたところを、劉備、関羽、張飛は背後から三方より攻めたてた。

 「勇者達よ、大義の為に賊徒どもを討ち果たせ」

 劉備の大義の采配に、天を衝かんばかりに意気揚がる劉備勢はあっという間に『程遠志』の騎兵八千を窮地に陥れた。

 敗勢打開のために『程遠志』は勇を恃んで関羽に一騎打ちを挑んだ。『程遠志』は武術には心得があり、黄巾党の中では抜きん出た存在であった。しかし、挑んだ相手が悪かった。

 「てめぇ、ぶっ殺してやる」

 「黄巾の賊将よ、青龍偃月刀を喰らうがいい」

 一撃で『程遠志』は関羽に蹴散らされ、ほうほうの体で逃げだした。

 「口ほどにもない、賊将は逃げ去ったぞ」

 関羽は一騎打ちの快勝を敵味方に知らしめた。

 黄巾勢はこの一騎打ちの敗北が伝染し、士気を失ってあっという間に陣形が乱れて戦線が崩壊、ついに『程遠志』の騎馬部隊八千は壊滅してしまう。

 「ここは退くぞ、覚えておれよっ」

 敵主将の『程遠志』は捨て台詞を残して『南皮』へ逃げ去った。

 5月24日、残る『鄧茂』の部隊六千に劉備勢一万五千は襲いかかった。敵本陣に籠もる黄巾党残兵は士気低く、『鄧茂』も既に逃げ腰の兵を制御できなかった。

 劉備勢の勝利は目前となっていた。劉備の大義の采配によって意気揚がる劉備勢に、単身敵陣を強襲しながら死体の山を積んでいく張飛の咆哮が加わる。

 「どぉぉりゃぁぁっ、死にたい奴は前に出ろ」

 万人を敵にして恐怖に陥れる程の威圧感が、残兵の逃亡を連鎖させていく。

 「くっ、ここまでか。あの化け物には勝てる気がせんっ」

 ここに至り『鄧茂』は戦線離脱を決め、兵士に変装して逃亡を図った。指揮官がいなくなった部隊六千は散り散りに逃げだし、二日もたたず壊滅することになった。

 「兄者、我ら三兄弟の初陣は大勝利ですぞ」

 関羽は大きく勝ち鬨をあげた。黄巾党一万四千を打ち破った劉備勢の損害は傷兵三百、戦死二百と極めて軽微だった。

 論功行賞では、功一等は一騎打ちで敵主将『程遠志』を打ち破った関羽、功二等は単身敵陣に突入し副将『鄧茂』を脅かし敗走させた張飛、功三等は味方将兵を奮い立たせる見事な采配を行った劉備と決め、配下の将兵、戦死者、傷病兵に至るまで、それぞれ公明正大に報奨が行われた。

 これには全ての将兵が驚いた。どんな戦でも主将が功を独占し、末端の兵には雀の涙程の僅かな見返りが常なのである。誤魔化して戦死者には報いないこともよく聞く話だった。しかし、この三義兄弟は功を正しく評価し、報奨を公平に分配してくれる。そして、関羽、張飛の鬼神も逃げ出す程の武力と、劉備の采配の見事さに将兵の中から三義兄弟を信奉する者が出始めるようになった。

 

 6月10日、劉備勢は目的の都城『中山』に到達。民衆からの万雷の歓呼によって迎えられると、『中山』の政庁に無血入城を果たした。

 翌日、戦勝の喜びに多くの将兵が祝宴をあげる中で、人知れず劉備は戦死二百名の弔いを行った。

用語説明

『幽州刺史劉焉』・・・ 姓名は劉焉、字は君郎。漢室の末裔で幽州を統べる刺史(行政長官)であり、本拠地を薊に置いていた。文官としての才能には秀でるが軍事には疎い。その為、黄巾の乱鎮圧を前に優秀な武官を必要としていた。性格は冷静沈着だが強欲。子に劉璋がいる。

『劉幽州』・・・ 幽州刺史の劉焉のことをさす敬称。中国では名は諱(いみな)として呼ばれることは特別な時であり、字か官職で呼ばれることが多い。例、劉幽州(姓+官職(任地の地名など)。

『中山』・・・ 冀州の都城のーつ。薊の南西、鉅鹿の北、南皮の西にある。古くは遊牧騎馬民族の狄が起こした国とされる。

『鉅鹿』・・・ 冀州の都城のーつ。中山の南、南皮の南西、甘陵の北西、晋陽の東、鄴の北。黄巾党の首魁張角の出身地であり、その本拠地となっている。

『太守』・・・ 都城の行政長官。

『中山靖王劉勝』・・・ 劉備の祖先。前漢第六代皇帝の景帝の王子。中山靖王に封じられ、五十人以上の子をもうけたとされる。

『河間』・・・ 薊と南皮と中山への三つの道が交差する要衝の集落。都城に従属させれば二万の民が増加することになる。

『南皮』・・・ 冀州の都城のーつ。北平の南西、薊の南東、中山の東、鉅鹿の東北東、甘陵の北東、晋陽の東、平原の北。後漢から三国時代の華北における重要な都市のーつ。

『程遠志』・・・ 黄巾党の頭目の一人。盗賊あがりで腕が立ち、一騎打ちは得意としている。騎馬を使い盗みを働いていたようで、騎馬隊の扱いに長けている。頭は悪いが、戦場では敵の士気を下げる戦術を使う。性格は猪突猛進で強欲。

『鄧茂』・・・ 黄巾党の頭目の一人。程遠志と同じく盗賊あがりで腕には自信がある。騎馬を使い盗みを働いていたようで、騎馬隊の扱いに長けている。頭は悪いが、戦場では敵騎馬隊の防御を大きく下げ、士気を下げる戦術を使う。性格は猪突猛進で強欲。

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