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as it is, as they are 2024/04/30

少しの間、noteエッセイを書いていなかった。noteを書くという行為自体が、ケムリのように手のひらからするりと抜けてしまっていて、何だか薄ぼんやりとしないといけないこととして認識されてはいるのだけど何か何処か他人事で、自分事にできずにいた。

前に書いたのはいつだったのかと確認してみたら、04/24の蠍座の満月の日で、宗像大社へと向かう道中のことだったのを案外明確に思い出した。そうか、あのときから、わたしはnoteを書いていなかったのか。確かに、書けるはずもなかった気もしてくる。

理由はシンプルだ。24日のわたしと今のわたしは決定的に違う。それ以上今言葉にしようとすると何だか大切な感覚が抜け去ってしまいそうで不快だと感じるので、この当たりの感覚はもう少しそっとしておこうと思う。言葉にしたくない理由は言葉にしようとすると歪みしか生じないからで、そこにあるあった体験が言葉にすることで全く別のものになってしまうような気がして不快に感じてしまう。ただ起こったことを、今ここにあることをまっすぐに言葉にするというだけ、額面通りのことをするだけなのだが、その行為によって何かが大きく矛盾していくような確信があって、言葉にするということをしたくない。言葉にすることで何かがズレていくのだ。それをここでは便宜上矛盾といっているが、何も矛盾していないかもしれないし、大きく矛盾しているのかもしれない。そもそもその歪みが「矛盾」というものであるか否かが明確でなく、時空間のねじれをやはり便宜上矛盾と呼んでいるに過ぎないような気がする。

とまぁ、なにやら物々しいことを書いてしまったが、わたしが今感じていることはそれらをまるっと孕んだ凪みたいなものだ。・・・ものだったのに(書き始める前は)、今自らがその凪を波立ててしまったようで、少しざわついている。触れたくないものに触れた代償は予想外に大きく、だから書きたくないのだと思い知る。深呼吸を重ねる。少しずつ凪ぎゆく感じがする。大丈夫、わたしはわたしの大切な体験とそれに伴う大切な体感を、無為に或いは有為にでも、簡単に手放したりしない。

わたしはわたしが大切だ。わたしを大切にしたい。どんなときも、真綿にくるんで大切に抱きしめていたい。その上で、冒険がしたいならいくらでもさせてあげたい。誰かを好きになるなら好きにならせてあげたいし、誰もわかってくれないことでもわたしが怒っているならちゃんと怒らせてあげたい。すぐには気付けないこともきっとあるだろうけど、時間がかかってもわたしの中にあるもののすべてに気付いていきたい。心地良さの中にあって不快感を感じる余白を与えてあげたいし、その余白を守り続けたい。それをきっと、「as it is」というのだと思う。そして、わたしit、それがそうあるように、「as they are」わたしの周りにある世界の全て(ヒト・モノ・コト、そしてそれ以外の全て)が、そうあるように望む、望んでいる。それがわたしにとってのゆるしであり、祈りであり、願いなのだ。

かつてない1週間を過ごしたわたしは、その前にも、その後にもお墓参りに行った。そういうふうにできている・・・・・・・・・・・・できていた・・・・・のだと思った。わたしは、知らないところでわたしを導いている。同時に、知らないところで、たくさんのものたちに導かれている。だから「as it is」でしかないし、要らない力を全て抜いて、「as it is」でありたいのだと思う。

そんなこんなで、わたしは今日も、生きている。




2024/04/30 (113/366)

最後に、このnoteエッセイを書くにあたり、タイトルをつけたところからずっと浮かんでいる過去記事を紹介しておきます。
わたしの大好きなサハラ砂漠の写真(2018年初春に行ったときのもの)をサムネイルに使っており、その理由は、最後にさらりと書いてたりします。


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