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過去の栄光が眩しいような気がするときは 2024/07/17

不思議な流れにいざなわれて、Xのとあるポストから、2021年の12月の写真をふりかえってみることにした。実際に見てみると、「いやいやこれ何年前?」という気持ちになるものから、「まだこの辺りなんだな・・・」と複雑な気持ちになるものまで、数枚の写真を目にすることになった。

その中に、サムネイルに使用した何故か赤マルを付けたスクショがあった。「なんでわざわざ赤マルを付けてスクショしているのだろう」「その記事をスクショすればいいのに」と思ったが、その記事のスクショなるものはやはり存在していないわけで、noteのアプリ開き、自分の記事の検索画面にタイトルを入力したところ、以下のnoteが見つかった。

そのままポチ、と開いて過去の自分(2021年11月21日)が書いたnoteを読んでみると、どうやら2021年の11月末〜、太陽射手座のシーズンのメッセージとして書いた記事の中の天秤座の部分をpick upして、短いnoteを書いたということだった。

ということで、不思議な流れのままに、それをこちらにも転載してみることにする。2021年の太陽射手座シーズンのタロットカードを通して受け取ったメッセージではあるが、今ここにこうして蘇るのもまた何かのタイミングなのだろうと感じるので。ちなみに確認しておくまでもないが一応確認しておくと、こちら現在は今、2024年の7月17日で、太陽蟹座のシーズンの終盤である。

♎ 天秤座⚖️ 【7 of WANDS】
あなたが守っているのは、自分の居場所ですか?
それとも、あなた以外のものの居場所ですか?
自分が守りたいものを見極めるときが来ているようです。あなたが守るべきものは、本当のあなたであって、周りの環境によって作り上げられた虚構の“あなたらしき人”ではありません。
その虚構の姿が、あなたの理想に近ければ近いほど、あなたは苦戦を強いられるでしょう。この1ヶ月、あなたが向き合うべきは、どんな自分であっても愛されるに値するのだという覚悟なのかもしれません。

射手座シーズンのタロットメッセージ/2021/11

これは、2024年の7月を生きるわたし(たち)に通じるメッセージといっても良いのではなかろうか。

我々は今、2024年という時の流れの中にいて、年始から強く吹き荒れる風の中をそれぞれの流れの中でここまでやってきていて、だからこそ、それぞれがそれぞれのタイミングで、といいつつ時を同じくして、今 もう一度『居場所』とか『居心地』とか、さらには『わたしとは』みたいな本質的なところに帰ってきて原点回帰していると感じている。

タイトルを「過去の栄光が眩しいような気がするときは」にしたのは、過去の自分が書いていたメッセージを読んだときに、"今はこの文章は書けない" と思ったのと、"マガジンの運営を手放してしまったな…" と思ったから。どちらかと言うと、栄光が眩しいというよりは、過去の自分を羨ましく感じたからだ。

しかし、ややこしいのはここからで(苦笑)、わたし自身は過去の私に対して「栄光」や「羨ましい」ということは(全く感じないわけではないが)感じないということだ。この感覚の齟齬について、少し紐解いてみようと思う。

つまり、タイトルにした言葉は  "今のわたしが本当にそう思っていること" ではなく、逆に・・本音に気付かないようにするためのオブラートであり、かつ、逆に・・そこから "本音に切り込むためのトリガーとして1番に浮上してきた言葉"、ということになる。つまり、ダブルミーニングだ(ややこしい)。言葉の着ぐるみと言ってもいい。

キャッチーだったりノスタルジックだったりする言葉は、少しキラキラしていて(どちらかというと言葉自体というよりはわvibesがあやふや(曖昧さを孕む)' という意味でキラキラ)、焦点を合わせているようで全く違うところへのいざないとなってしまうことが多々ある。特にわたしは。だから、こういうときに出てくる言葉や感覚はよくダブルミーニングになっていて、注意深く観察する必要があると思っている。

話を戻すと、その羨ましいという気持ちの出処は、過去の自分からみると2024年07月のわたしが既に存在するということは、過去の自分にとっては未知の未来を既に2年と8ヶ月経験しているわたしの存在が、つまり確定している・・・・・・未来が・・・存在している・・・・・・という意味において、過去の自分が羨ましい、ということらしい。

なぜなら、今ここ2024年07月のわたしにとって、例えば同じ期間にするなら2年と8ヶ月後ー2027年03月ーの自分が全く想像できないからだ。未来がどうなっているか分からないのは怖い。だから『居場所』がわからなくて、分からないことは怖いから『居心地』が悪くて、だから、既に過去2021年11月の自分からしたら未知のプロセスを経て今ここ2024年07月にいるわたしが居るということは、安心して前に進めるだろう、ということのようだ。

なるほど。でも、実際の過去のわたしにとっては今のわたたしは未知のわたしであるわけで、そのプロセスを知っていたから前に進めた訳ではなくて、ただそのときそのときにできることと、その時の自分がしなければいけないこと(これは自分を選ぶという意味でのしなければいけないこと)を選び行動してきただけの結果であって、現在のわたしを想定したものでは決して無かった。

だから、今ここにいるわたしもまた、未来のことなど何も分からなくても、ただできることを淡々としていけばいいということなのである。それだけのことが、こんなにも怖いなんて、わたしは逆にどれだけ変わると"確信"しているのだろう。のびフェスでも少し触れたが、変化というのは広義の(あるいは狭義でもありますね)死であって、そこには恐れが伴う。恐れとは、「今ここにいるわたしがいなくなってしまう」ことへの感情である。だから、それを感じたとき人は現状維持を望んでしまう。なぜなら、「わからない」「経験したことがない」「知らない」ことほど、怖いことは無いからだ。「答えがない」「正解じゃないかもしれない」ことを、わたしたちは選んできていないからだ。その自分が「大丈夫である保証が何処にもない」からだ。

でも、わたしは知っている。「大丈夫である保証が何処にもない」からといって、「わたし自身」を選ばないという時期はとっくに過ぎ去っているということを。むしろ、それを選ぶときにこそ自分は「わくわく」する、ということを。

過去の栄光が眩しいのでも、過去の自分が羨ましいのでもない。頭に「過去の」という修飾語を付けてしまう自分の思考のくせをこそ疑えという話。今ここにいるわたしが見ているのは過去ではない。わたしが眩しいのは未来の栄光であり、羨ましいのは今ここの自分なのである。栄光といっても、世間一般にイメージされる栄光ではない。その栄える光は、ただ真っ直ぐに、より純度の高い自分であることに他ならず、今よりもずっとそうなる可能性のある今にいることが、今ここには可能性しかないというその事実こそが、羨ましいということなのだ。

ちなみに、これは無量空処のような感覚で繰り返されるものであり、拡大すればする程により繊細により微細に純度をあげていくということであって、ある意味終わりのない世界なので、見方によっては怖くなったり絶望したりするのもわかる。世界も自分もフラクタルだから、そういうふうにできているのだから、だからこそ、早くその流れのままに、無抵抗に自分であるということだけを選び続けられたらいいなと思う。でも、イチイチひっかかって、イチイチ怖気付いて、イチイチ怖がるのも醍醐味ではあるから、そのあたりは取り込まれすぎないように注意しつつ、楽しむことも選べたらいいのでは無いかと思う。

なんだかとても長くなってしまったが、きっかけをくださった方の作っておられたハッシュタグが  #2021年12月の写真を長文とともに挙げる だったと思うので、想像以上に趣旨に沿っているということでめでたしめでたし、チャンチャン!と軽やかに終わることにする。



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