嫉妬してる場合じゃない
嫉妬してる場合じゃない。
次に進まなければ。
なんだかよくわからない焦燥感だけが、わたしの中をひしめき合っていたここ数日。いや、実は数ヶ月...なのかもしれない。象徴的にここ数日で感じやすいカタチ・わかり易いカタチで目に見えたのがここ数日で、本当は底辺ではずっと存在していたけど名前がまだなかっただけかもしれない。もしくは、名前をつけたくなかったのかもしれないし、ラベリングしてしまうのが怖かったのかもしれない。「名前をつけるとラベリングはニアリーイコール...というか同じやん」と思われる方いらっしゃるかもしれませんが、微妙〜に違うニュアンスで使っています。
感情の名前は嫉妬
それが「嫉妬」というものだとハッキリと自覚せざるを得ない出来事が、本当にこの数日間何回も色んな場所で起こり、「ああ、わたしは今この感情と向き合わざるを得ないのだな」とギブアップ。なぜこんなに「嫉妬」するのだろう、と自分の心の内を静かに観察してみた(・×・)
なかなか不快な作業。だいぶ内観は出来るようになってきたとはいえ、やはりネガティブといわれるジャンルに分類されることを(しかも嫉妬🔥)観察するのはなかなか心が折れる。自分の心とは、何とままならないものなのだろうと不思議にすら感じる(くらいの距離感で持って冷静さを保ちつつ向き合ったりもした)。
『こころ』
少し脱線しますが、いま「こころ」がままならないことだ、と書いて、中学時代に国語の教科書に載っていた夏目漱石の『こころ』を思い出した。学生ながらにあの話は衝撃的だった。しかも、『こころ』は3部構成でなっているのに(のにって変かな?)、いちばん辛いともいえる「先生と遺書」(“先生”の独白文)がpick upされて教科書に載っているのだから。なので、正直、国語の教科書を作る人はどういう意図でこの文章を載せたのだろうと思いながら読んでいた(素直に読めよ😅)。
なので、後から小説を買って全文を通して読んでみたけど、何回か読んでみたものの、最終的には結論には達していないというのが正直なところです。・・・わたしは一体ここで何の告白をしているのでしょうか?(;▽;)
こころは1914年に発表された夏目漱石の晩年を代表する小説で、上「先生と私」中「両親と私」下「先生と遺書」の三部で構成されています。
☞ 引用元リンク
嫉妬は自分を制限する可能性がある
ということで話を戻しますが、結論からするとタイトル通り「嫉妬してる場合じゃない」というところに至りました。
で、なぜこのことをnoteに書いてるかと言うと、朝ものすごく不快な音がして目が覚めてしまい(しかも今思い出したらその音も三部構成だった...シンクロしてますね)、寝れなくなったので旅の準備でもしようかなと悩んでいた矢先に、ふと「嫉妬って自分をその場に引き止める感情やんな(わたしは関西人なんで思考の声も関西弁)。」とふと思ったからなんです。あ、これはnoteに書かねば、と。なぜなら、わたしと同じように、「嫉妬」という感情によって自分で自分の首を絞めている人が沢山いるかも、と思ったから。・・・ってなると、これはあんまり人に読んで欲しくない内容だけど、定期購読マガジンに入れる訳にはいかないなあ...とか今思ってショックを受けているわたしがここにいます(こっそり公開したかった...だって恥ずかしいじゃないですか)。
でもまぁいいか。だって思いついてしまったってことは書けってことだもんな( ̄▽ ̄;)
開き直りがやたらと早い自分にゲンナリしつつ(ゲンナリしつつ、実は結構いいと思っているw)、最後ちょっとだけ非公開にするかどうか、悩みながら(笑)とりあえず続きを書きます。
嫉妬について
まずは大事な言葉の定義から確認。
前提(共通認識)がないと話が進まないので。
嫉妬(しっと)とは、自分より他人の方が優れている、あるいは自分より他人の方に愛情が向けられている、といった認識に伴って生じるネガティブな感情のことである。一般的には、羨望と憎悪が含まれる攻撃的な感情と捉えられる。
嫉妬の「嫉」および「妬」の字は、どちらも「ねたみ」と「そねみ」という訓読みがあり、それぞれの字が単独で嫉妬の感情を指し示している。英語では jealousy が嫉妬の意味合いに最も近い語と位置づけられる。また、envy も基本的には羨望と訳されるが、日本語の嫉妬に含まれるニュアンスを持った英語である。
そういえば、『鋼の錬金術師』に登場するホムンクルスの中に、嫉妬(Envy)という名前のキャラクターがいましたね。
ホムンクルスって全員がすごい秀逸なキャラクター設定(それはそもそも『鋼の錬金術師』はキャラクター・ストーリー全編を通して言葉にし難いというか、作品から受け取ったものをうまく表現しきれないのがもどかしい、つまりめちゃくちゃ素晴らしい作品です)だなと思いながら、うんうん唸りながら(?)読んだのを思い出しました。
ウロボロスの組織の一員で、『七つの大罪』の『嫉妬』を司る。 中性的な容姿・服装をしており、性別は不明。 ちなみに、一人称には男性的な「俺」「僕」や女性的な「私」「あたし」などではなく、「このエンヴィー」という独特な言い回しを使う(ただし、マルコーにやられて弱った時は、「俺」「私」と二つの一人称を使っていた。
(なんかめっちゃ長くなってきましたね。どうまとめるのかな。)
ベクトルの方向
さっき、嫉妬は自分をその場に引き止める感情だと思った、と書きましたが、それはこういう理由からです。
意識のベクトルの方向が違う。違うっていうと語弊があるかもしれないので、“間違っている”のでは無いか?ということです。
嫉妬の説明のところで「羨望」という言葉がありましたが、まさにそれも自分の視点がその嫉妬する対象に向けられた状態を表していると思うのですね。つまり、そこには比較が存在していて、さらには自分が下になっている。「存在」というものに対して濃度勾配が生じていて、相手が高くて自分が低い状態になっています。だから、視線が向けられているんだけど、その視線は相手を主語にすればもれなく上に向けられることになるし、自分を主語にすれば例に漏れず下を向くことになる。すでにここで、決定的に立ち位置が違ってしまってるんですよね。
そして、さらに厄介かなと思うのは、ここまでは大体オートマチック(自動反応的)に自分の中で起こってしまう可能性が高いからです。なぜなら、それは思考の癖だから。
「羨望」で終わればまだましで、「憧れ」にすることができればその対象の存在に近付きたいという意識が生まれる。この場合は、自分を動かす原動力になるから〇ですよね。
自分が自分をどう見ているか
じゃあ、どういう時に「羨望」から「嫉妬」という感情に変化し、自らをその場から動けなくしてしまうのか?
・・・それは、自己価値が低いときなんです(のびたまごしらべ)。自己重要感が低いとも、自己承認ができていない状態である、とも言い換えられると思います。これらは全て、そもそもはじめから自分のことを対象の人物よりも下に置いてるんですね。これも思考の癖だと思われます。
・・・と言ってしまうとちょっと乱暴かなと思わなくもないんですけどね^^;
なぜかというと、元を辿れば自己価値が低くなる要因としては本質要因と環境要因があると思うのですが(さらにいえばそういう風に分けて考えると本質要因は除外される場合もあると思うのですが)、ここを掘り下げていくとこのnoteは延々と終わらない事になってしまうので、この件に関してはさっきも書いたようにちょっと乱暴ですが今回はこの辺にしておきます( ˇωˇ )
そもそも「存在」については等価値なので(人間以外においても全部)、濃度勾配なんてそもそも存在しないのですが、自分が自分を低い位置に置いていると、それは存在することになってしまいます。そしてそれは、自分で自分をしんどくしてるってことです。
嫉妬の絡繰
という絡繰(からくり)に気付いたので、わたしは「あ、これ嫉妬か🔥」と気付いたのでした!
気付けたらあとは簡単です!
「よし、わかった。じゃあ今はどうしたい?」と自分に問いかけて、「こうなりたい」もしくは「こうなる!」を決めたら、そこに向かって自分の意図の橋を架けるだけです😊
自分の中にあったネガティブなシステムを分解して、今の自分にあったシステムを再構築するかんじ。まあ、これがいわゆる「アプデ」ですもんね⸜🌷︎⸝
なので、ここで呟いてた「アプデ」は合ってると思われます。まだまだ序の口な気がしますが(なぜならわたしは今日から旅に出る)。
で、ここで書いてる「もう一個、始めようと思って準備してたこと」がこの定期購読マガジンだった、という絡繰でした\(^o^)/
ということで、ここから↓↓↓有料部分にします!
本編終わってるので、もうほぼ終わりですけど😚
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よものびばなし𓄿☽☼☆
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