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死の祭壇 【#ホニャララLIVE 046】
わたしの知っている/いたはずの、《シャンデリア》や《光》。
それは、そこにはなかった。
それはつまり、既成概念の外側にしかなかったもので、そういう意味では、魚座が宇宙でカオス、というのが痛いほどわかった回でした。
そして同時に、どこまでも掴めない感覚(たぶん、わたしの理解はまだわたしの既成概念の中かもしれないという想いは永遠に消えないだろうという感じ、言語化難しい…)がある、ということを身をもって体感した、そんな時間でした。
終わってすぐにTwitterでこう呟いて昨日は寝たのですが、
光よりもカオスをめちゃくちゃ感じた回でした。
— のびたまご@ぼちぼち通常モード♪ (@nobi_ta_mago) March 13, 2021
そういう意味では、わたしは「光」の概念がぶっ壊れました(笑)
光ってなんなんやろ。。。
光を当てるってなんなん?と。
言語化してみたいけど今日は寝ます…( ˘ω˘)スヤァ… https://t.co/f4EqBk3tXp
朝起きてまた気がついたら考えていて(笑)、これは出した方がいいんだなと思ったので今これを書いてます。
昇華させる
わたしは、今日になってやっと、キムさんがされていることはお葬式なんだと思いました。昨日は言葉にならなくて。
で、シャンデリアかお葬式だから、祭壇なのかー!と。で、その一連の流れ(インスピレーションから作品となるまで)を言葉にした時に当てはまるものは、というと(昨日ホニャララ中にyujiさんが言っておられた言葉なのですが)、「昇華させる」になるなぁ、と思いました。
「昇華させる」ということが、もしかしたら「光を当てる」ということかもな、とも思いました。
その先にあるのは、一縷の希望と、純粋過ぎるほどの祈りなのかな、とも。
もしかしたら、ある種の誓いも含まれているかもしれない。
クリスチャン・ボルタンスキー展
なぜそういうふうに思ったかと言うと、ホニャララ見ながら頭の中に浮かんでたのが、約2年前に開催されていた、クリスチャン・ボスタンスキー展で見た、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害(アウシュヴィッツ)を扱っておられたあの世界観だったからなのでした。
Christian Boltanski
[ Lifetime ]
2019.2.9-5.6
・
始まる前から行きたかったボルタンスキー展、会期終了前ギリギリに何とか行けた😌✨
時間も空間も超えて、色んなことを感じた。空間の中に埋もれて、自分が自分だと認識する自分と、それ以外の自分がそこに居て、その、全部で空間を通して死者と繋がったような感覚でした。
会場から出た瞬間、何だか自分の中の何かが死んだような気がして、身体が軽くなった。
自分が要るものだけをもって、生きていったらいいんだと思った。
わたしは、ホニャララ視聴中に、このボルタンスキー展のときに感じていたものの中に取り込まれそうになったので、どうにか踏ん張ってました(イメージです)。
一言で言うと《禍々しい悲しみ》かな…
禍々しいと言ってはいけなき気もするけど、わたしの感じた感覚を届けるならこの言葉かなと思うのであえてそう書きます。
なんで、どうして、なんで?
わたしが、こんな目に合うの?
自分に対して理由なく理不尽にふるわれる暴力・差別・軽蔑・侮蔑…そういった、自分の存在を「虚無」にさせるものたちが、何故か世界には存在する。
そういうエネルギーをずっとボルタンスキー展では感じてたなと改めて思って、昨日のホニャララでも、一番最初に作ったと言われてたぬいぐるみのシャンデリアからわたしは《それ》を感じたんだなとやっと分かりました。
ぬいぐるみのお葬式に見えてしまって、でもそれが言語化できなくてぐるんぐるんしてました。
だって、そもそもが既成概念の外にあったし、まず初めに「シャンデリア」だと言われてたから、【そういう目】で作品を見ていたので、既成概念の外の話をされてるのに、自ら既成概念の中にハマった状態で話を聞いてたから、頭の中の方程式が成り立たなくなりました。
だから、エネルギー酔いしてたんですね!
昨日のホニャララで目を向けざるを得なかった(でもあまり見たくないという自覚が本来あるもの)、自分の中に渦巻くものが、いま、少しだけど「昇華された」気がしました。
虚無感と既成概念
昨日はこの話だったなとわたしは思っています。
現時点で、ですけど。
まずは言葉を確認します。
虚無感とは。
虚無感(きょむかん)とは、すべてが空しく感じること、何事にも意味や価値が感じられないような感覚、などを指す意味で用いられる表現です。たとえば、人生の意味や自分の存在意義などについて「まるで無意味なのではないか」という思いに苛まれているような状況は「虚無感にとらわれる」などと表現されます。
「虚無」という言葉には「なにもない」「空っぽである」「何の意味もない」「まったくの無価値」といった意味があります。「虚無感」は、そのような(「虚無」を感じている)感覚です。
虚無感とは具体的にはどのような感覚なのか、その様相は多分に人それぞれでしょうが、たとえば「なにか本質的な大事な部分がごっそり抜け落ちているような感覚」とか「目指すべき人生の指標が見当たらず暗中にいるような感覚」は、虚無感であるといえるでしょう。
「虚無感」という言葉はたいてい、「虚無感に襲われる」「虚無感にとらわれる」「虚無感に包まれる」「虚無感に苛まれる」というような言い回しで用いられます。虚無感と同じ意味で「空虚感」という表現が用いられることもあります。
哲学・思想の分野では、世界や人間存在には一切の意義も価値もないと捉える立場を「虚無主義」(ニヒリズム)といいます。
既成概念とは。
既成概念とは、すでに世間に広く浸透し「そういうものだ」と定着しているような、認識や考え方の枠組みを意味する表現。すでに出来上がっている概念(物事の捉え方)。
つまり、まったく関係ないこの2つ。
なんなら真逆か、真逆のさらにねじれ辺りの位置にあるようなこの2つが融合してたから、わたしは船酔いしたってことなんです。
あれが魚座の境界線を超えて融合する、ということなんだったら、えらい大変な世界やなと。←急に雑
でも、魚座の皆さまはふっつーに分かる、って感じなんだということまで、ガヤの皆さまのコメントからは見て取れてたので(そこからはエネルギーのねじれは感じなかったので)、だからか!と妙に納得したりました。
言い換えると、スマホの画面☝︎で、こんなに上がカオスなのに、下は(カオスな部分もありましたけど)さも当然という人がいる…!なぜ?魚座ってどうなってんの??ってなってて、わたしというフィルターを通してみたときに、現実が話の内容には船酔いしてるのな、スマホの画面上までもが不協和音に溢れててしんどい…みたいな感覚だったのはなぜか?という個人的な謎も解けました。
やっぱ、これがわたしにとっての「昇華」という感覚みたいです。
真には違和感がない
その理由がこれで。
わたしは、自分の中にもともとある真実であれば、それは例えばどんなに周りの人や世間から変だとか違和感があると言われても、やはり自分の中では違和感がないんだと思っているから。
だから、例えば今回のホニャララLIVEみたいに「地球外生命体」ならぬ「自分外不理解案件」みたいなのがぽよんとやってきても、自分の中の言葉や表現でどうにか細分化して理解できたら、それはもう自分のものになるから、「自分外不理解案件」ではなくなるんですよねー。
昨日最後に恐怖に関する話?で井出さんが仰ってたことはこれか…と今更ながら腹落ちしております(昨日見てる時も理論では理解出来てたからふんふんとおもって聞いてたけど、今わかりました)。
自分じゃないものを理解すること
そのためには、自分をしっかり知らないといけない。
じゃないと、まずわからないんだということがわからないから。
わからないということがわからないと、そこに「はてな」をつけることができないから、消化できなくなってしまって(ここでは消化ですね、漢字って凄いですよね!)ずっと気持ち悪いままになる。
で、その気持ち悪いままということもわからない、となるとほんとにしんどいですよね。
でも、これ、結構日常的にやってるんだろうな、と改めて思いました。まさに、宇宙人(自分外不理解案件)とは、もうすでに会いまくっている、と(苦笑)
となると、【死】の概念についても、不理解じゃなくなるときがきたら、それは恐怖ではなくなるというのは、やはり真であるなぁと思いました。
恐怖の正体は、未知なんだな、と。
ということで、なんかこのままだとどんどん話が脱線していくので(まさにカオス)、この辺で終わりにしたいと思います。
でも、みんな魚座や12ハウス的要素は必ず持ってるんだから、自分の中のどこの部分で勝手に融合が起こりやすいのかを確認してみて、その感覚の違う見え方・違う在り方・違う表現の仕方が、今回のホニャララだったんだ!というふうに捉えてみたら、何か面白いものが見つかるかもな?とふと思いました。
おしまい。
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