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久しぶりのあたらしいこと 2024/05/15

久しぶりになんだかとても新しいことをした。したことがない訳では無いが、ほぼしたことが無いに等しく、そのしたことがあるという体験すらももう遥か彼方のような気がする。と書いてみてふりかえったら、そういえばそれって18年くらい前になるかもしれず、そうなると前回のDh牡羊座期にしたことと同じで違うことをしているということになる。と、ここまで考えて、なんだか不思議な気持ちがしてきた。

更に、まだ知らなかった事実(ものすごく色々隠されたところに存在しているそういうのがある)を知ることになり、わたしとしてはこの事態をどう受け止めればいいのかとそわそわしたのだけど、それはもうそれでそのまま知っておけばいいことなのだと思い直した。そして、今しているあたらしいことが、この時間になったことの意味をまた、受け取っている。

わたしは、何かあたらしいことをするとき、他にも講座やセッションを受けるときなどは(自分がさせていただくときもするときも毎回ではないですがあります)、その時間のホロスコープを出して、どういう感じかをさらりとみたりしている。今日のこの用事がこの時間になったことの意味を深く受け取っていると同時に、自分のネイタルチャートにも繋がる流れを感じていて、つまり一言で言うと "自己受容することによる人生の展開の凄さ"に圧倒されている。

何かを受け取ることができるとして。果たしてそれは、一体どこまで受け取ることが許されるのだろう。きっとそれには制限なんかなくて、自分が許した分だけ受け取れるのだということを、目の前で起こっている事象とそれを通して今感じているこの体験を通して、実地で学んでいるのだと思った。この体感はこれまでそうそう味わったことのないものだと確信できるくらい、何だかこれまでと違う体験だった。それと同時に、これからはこういう体験がわたしの人生を占めていくのだろうという予感と確信を得ている。どこまで与えてもらえるのだろう。その問いの答えも自ずと然りで、上述したとおり、自分が許した分だけ受け取れるのだということなのだ、きっと。

この世界の仕組みはすごい。自分がロックを外した分だけ、ちゃんと反映されてロックが外れる。しかもその現実化の時間が明らかに(異様に)早くなっていて、わたしとしては開いた口が塞がらないという気持ちである(実際は口はマスクをしている上にきちんと塞がっている)。

どうしよう、などと思っている暇は無く、既存の知識や体験の中から正解を探す時間は最早必要ないようだ。人間のびたまごは心臓がバクバクしてめちゃくちゃビビっているが、その人間のびたまごの中の人は「マジでこれからのわたしの人生面白くなりすぎちゃってヤバくない?!」ときゃいきゃいきゃいきゃいしている。わたしはこれを書きながら、自分の中にある上記の部分(人間のびたまご)が、申し訳程度の存在感なのを確かに感じている。申し訳程度の存在感の割にびびっているのは、自我が猛威を奮っているからにほかならない。これは多分書かなくていいのに(だってカッコ悪いから)書かずにはいられないのは、書いた方が晒した方が客観視が用意になるからであり、苦肉の策なのです(苦笑)

このざわつきは、喜び+恐れ(たほうがいいんだよ、だってそっちは慣れてないじゃん!知らないよ、間違えるかもよ、失敗するよ、調子に乗っちゃって痛い目にあうよ!etc…)なので、そんな間違った予定調和のための真実を、ねじまげた不調和なんて要らないのである。なんちゃって、少し時間が経過してきたのと、最後対応してくれた人が優しかったからほっとしたのとで、少し息がしやすくなっているからなので、わたしはまだまだ小心者である。この辺のギャップは自分でも慣れないところで、まぁまぁ扱いに困るけど、人間らしくていいやん、と喉元過ぎれば熱さを忘れたわたしが小さく囁いて遅ばせながら強がっている。

はー、疲れた。それにしても、その時間のホロスコープったら。わたしは、もっともっと、嘘みたいに簡単に豊かになっていいし、豊かさを享受していいって、よろこんで許していかねばならない義務・・があるらしい。ありがとうございます、よろこんで。



2024/05/15 (130/366)

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