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思い知らないといけないこと 2024/06/11 -2

《注意⚠️》このnoteは、ドン底な気分なのに全然悪びれられない自分が出てきて絶望しているところから始まってます。前置きとかありません。悪しからず。

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わたしは最低だ。
本当は、人間界のルールなんてどうでもいいと思っている。ぜんぶ自分の思い通りになると思っている。例えば自分のせいで誰かが困ることになったとしてもそんなことはどうでも良くて、わたしの今の最大の関心事はとてつもなく美しい(らしい)夕陽を自分の座席のせいで見れないことだったりする。

なんとふてぶてしく自分勝手で身勝手なのだろう。もはや謎の神聖視と言ってもいい。自分のことを特別な存在であると思い込んでいて、本気で望めば全部叶うと思っているのがバレバレで、でも普段は謙虚な振りをしていい子にして変に突出しないように自分のことを抑制して、馴染むように振舞っている。

自分がそういう現実を創造しているのに、そうじゃない振る舞いを無意識に求めてもそれは現実化しない。良いとこ取りはできない。そういうふてぶてしさは許されていない与えられていない。ちゃんと自分がふてぶてしく振る舞うとき(本来の自分と対等であるとき、つまりエネルギーが強いとか弱いとかそういうんじゃなくてただただとおっているとき)、その通りの現実が創造される。

知っているなら普段からそうすればいいのだ。それをしないのは、まだどうにかして普通でありたいと思っているからで、誰かの、世界の、何かの枠に自分はハマっているんだよ、ハマっていられるんだよ(なんなら「凄いでしょ?(エッヘン)」とか思っていそうだ)、ということらしい。

なんと回りくどいことか。そしてなんとみっともないことか。何だか、バカみたいなところでタカをくくっている自分が心底情けなくなってきた。でも、そんなわたしの本当にふてぶてしいところは、こうやって本気で反省しているのにそれが終わった途端、本気で何事も無かったかのように反旗を翻すところだ。

切り替えが早いにも程があるし、気にしないにも程がある。図々しすぎるし、ふてぶてしすぎるし、あざとすぎるし、小賢しすぎる。あと、自分に都合がよすぎる。でも、それがわたしなのだと思う。どこかで、地球のルールなんかどうでもいいと本気で思ってしまっている自分がいるのだ。そんなものは自分には関係ないって本気で思っている自分が、わたしの中にはずっといて、たぶん子どもの頃はそういう自分がまるっと外に出ていたときもあったのだと思う。

今、この流れでふと思い出される記憶をなぞってみても、そういう自分・・・・・・が出てきたときは見事に親に、または周りの大人に怒られていた。「我が強すぎる」と言われることが常で、そう言われるたびに「わたしにそう言ってくるお前が(口が悪くてすみません)我が強いのだ」と心から思っていた。わたしはあー言えばこう言う子ども(あー言えばこう言うどころか相手の逃げ道を塞ぐ子ども)で、口が達者すぎて、ついでに子どもの割に頭が賢すぎて、あと観察力がありすぎて、指摘してはいけないことや、その大人が本当はダメだと思いながらしていること、考え無しに流されてそうしていることを問いかけては(嘘です、問いかけるのは最初だけでそのうち問い詰めていたと思う、自分が納得出来ないと気がすまなかったので←やはり我は強いようです)、答えられない自分を直視できない大人や、都合の悪い自分に気付きたくない大人に代償行為としての発露として怒鳴られたりあたられたり怒られたりした。納得できないのでさらに言い返してまた怒られ、「いい加減にしろ」と言われたが、「いい加減にしろはこっちの台詞だろう」と怒っていた。

こうやって改めて書いてみても、自分か間違っていたかと言われると間違ってはいないと思う。ただ、純粋すぎてタチが悪いなとは思った。自分で見て見ぬふりをしていたり隠していたり、我慢せざるを得なかったりしたことのど真ん中を突っ込まれたら(或いはその人にとっては土足で踏み込まれるような感じなのだろうから)、そりゃどうしたらいいか分からなくなって、でも所謂プライドがあるから、或いは強がっていないとやり切れないから、自分を保つための怒りという表現だったのならそれはそれで仕方なかったのだなとも思う。申し訳なかったなという気持ちは一応感じる。でもそのわたしって今のわたしと対して変わらないんだけどな、とも思う。

そりゃ、そのわたしはわたしなのだから同じなのだけど、そのときのわたしよりもわたしは大人になったから、ただのまっすぐじゃなく、自分のことを大切に、相手のことも大切に、どちらにも敬意を払った上でどうするのかを選べるようになった。その結果、傷付いたり傷付けたりすることを、予め引き受けることができるようになった。予め引き受けるとは、覚悟が決まっているということだ。それは、自分の信じる自分である貫く覚悟。

自分が自分なのは仕方ないなと思う。でも、昔のわたしと今のわたしが違うのは、世界にわたし以外の人がいること。もっとちゃんと言うと、わたし以外に大切な人がいるということ。昔は、全世界が敵だったので、喧嘩を売ってばっかりいた。わかりやすくは売らないのだけど(だからタチが悪い)、たぶんしれっとマウンティングするみたいなことをして、(みんなわかってるでしょうね?」みたいな感じでいたと思う。ね、感じ悪い(苦笑)

でも、昔みたいなはだかの王様ではなく、今は周りに人がいることを知っている王様として日々自分であるべく研鑽を積んでいる。・・・と、思っているし、思いたいのですがどうでしょうか(他人に聞くことではないので、公開で自分に聞いております)。

はー。自分の嫌なところと凄いところをいっぱいみた今日でした。今年のnDh×t太陽のcjnは例年になく楽しい体験・・・・・・・・・・・がたくさんできて、自分の成長を(成長というkeywordが好き)感じた。

そうだ。大切なことを書き忘れるところだった。わたしは、自分の中にいるとんでもない自分のことをたくさん書いたけど、その自分のままでいたいわけではない。その自分は自分が知っていればいい自分で、最後の最後に守れれば(生かせれば)いい自分で、もっといえばわかって使いこなせばいい自分なのだ。そういうエネルギーがあるよ、という話。それをそのまま振りかざしたいのではない。そのままの自分を超えたさらに緻密な自分になりたいし、ありたい。そのための原石や源泉のエネルギーに、ある事象を通して触れさせてもらったということだった。

そっか。わたしは結局与えられているのだ。与えられないことなどなにもなく、奪われることも何もなく、全ては体験で体感で気付きで、恵みで豊かさなのだ。謎に綺麗にまとめてしまってある意味不本意なのだが(もっとヤカラな感じのわたしのままでも良かったのに!w ←嘘つけw)、でも結局こういうのがわたしだったりする。有り得ないくらい尖った自分の周りに、それをマイルドにして馴染ませる自分がいる。その二面性をもってわたしである、ということなのだろう。そのときそのときを100%偏った自分で過ごして言葉を紡いできたら、こんなところ全くの想定外であるようでいつものわたしに着地した。トルコに行ったときの体験(結局好き邦題しようと決めて実際そうしてみた結果いつもと同じ自分がいた)と同じだった。つまり、いつもどんなときも、わたしはわたしなのだった。

ということで、何だかちゃんと元のところ(でも新しい、源を雪いだようなところ)にかえってきたので、これでおしまい(* 'ᵕ' )☆



2024/06/11 -2 (142-366)

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