真っ白なページをめくり続ける 2024/09/13
誰もが1度は見聞きしたことのある俳句。
少し前から、この句で表されているような感覚の中に、わたしはずっといる。
小~中学生くらいのときに、みんなで一緒に本を読むという時間や授業があったと思う。ずっと、めくればそこには物語が、或いは文章なるものが、言葉の羅列が書かれていて、ページの最後まで読んだらまた頁をめくって、そうやって書かれていることをわかったりわからなかったりしながら読んでいけばよかった。それが、いつの間にか空白が多くなり、そのうちとび始め、今となっては何も書いていない真白なページが続く日々だ。いめ、日々どころではないくらいの時間の単位の刻み具合で(といいつつそれは伸び縮みする)、連続している。一向に、戻る気配がない。
おそらく、もう戻らないのだろうが、わたしはまだ頁をめくる度にかつてはそこに紡がれていた言葉たちががまた帰ってこないかを─もちろん初見のはずだが感覚的に以前と同じという意味で─、待ち続けている、らしい。感覚ではわかっている。もう、戻ることは無い、と。
でも、まわりのみんなの本には文字が書いてあるから、もしかしたらわたしの目がおかしいのかなとか、本が違うのかなとか、そんなことを思ってみるのだが、全て無駄なことで、ただ自分の中に虚しさが残るだけというか、遣り場のない、形容し難い感覚や感情だけが、密かに心の澱として積み重なっている。
頁をめくる手を止めることは許されない。なぜならその本は、わたしの人生をかきしるしたもので、そういう意味で本来ならば先に書いてあるはずなどない代物で、でも同時に既に書いてあるはずしかないはずの代物でもある。生まれる前に全て決めて書き記してきたのだというならそれは後者だし、全てのことは今この瞬間の選択の先に再構築されるのだというならやはり何も書いてあるはずは無いだろう。
はて。
自分が今めくっているのは、どちらの本なのだ?
答えは明白だった。
・・・実は、どちらの本でもない。
そうか、言葉にしないまま、脳の隅っこの方でこのどちらかだと思っていたのだが(だから無意識に当てはめようとしていて、でも決して当てはまらないのだが、そしてそのことにも気付いていたのであるが実際は気付かないようにして)、そうではなかった。
わたしの人生をかきしるしたものであることには変わりない。でも、今わたしが何かを期待して何かに裏切られて絶望しながらめくっているこの本は、今はわたしひとりで書いているのではないようだ。厳密にはわたしが書いているのだが、自己創造ではないという意味で。
つまり、わたしが立っている今ここのその場所は、そういう場所で、めくっているページが白い理由はそういうことで、だからわたしが観察する視点を変えることができれば、信じられないくらい色鮮やかなインクで彩られた(もはや文字が書いてあるのかも謎だが極端に対極にある表現としての一例として挙げてみた)頁をめくっている自分に気付くし、これまでの白い頁にも色が浮かび上がるに違いない。
本のルールが変わっていた。だから書いてあることが見えなかった。かつてのわたしの感覚で、新しく今起きていることを観察するのは難しい。自分にできることなどたかが知れていて、そこにあるものに気付き、選び、そして信じる/信じ抜くしかない。
テーマは一貫している。さすが、わたしの人生をしるしたものであるだけあると、自分ながら謎に感服してしまった深夜の01:50。
2024/09/13 (198/366)
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