誰かの京都⑥

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名前はわからないが、川にいたり、海にいたりするはずの魚がこちらに向かって走ってくる。なぜ、魚が陸上を走れるのかといえば、腹のあたりから左右に人間の足が生えているからで、それをイッチ・ニと動かしながら魚は走っている。
「おぉい、そこの人、頼む、捕まえてくれ」
魚の背後にも誰かがいる。その人が魚を追っかけながら叫んでいるのだ。文字市に足の生えた魚が乱入したらきっと騒ぎになるだろう。捕まえることにする。幸い、魚は私の脛ぐらいの大きさだったので、足下まで来たところを両脇から抱え上げることができた。魚は私のほうを見ようともせず、左右の足を必死に動かしている。逃げられないように気をつけなければならない。
「ああ、助かった」
魚を追いかけてやってきたのは、編笠を頭に乗せたカワウソだった。
「川のぬしでもかかったかと驚いてたら、糸、外して走り出しちまって。おまけに魚類の癖に足が速くってなあ」
カワウソは私を見あげながらヒゲを動かして早口で言った。それから、ハーと長い息をつくと「大変、助かりました」と深々と頭を下げてくる。カワウソにお礼を言われたのは初めてのことだった。
「お困りのようでしたから。よかったです」
と、魚を抱えた私は畏まって言った。魚はまだ足を動かしている。
「それで、図々しいことは承知で言うんだが」カワウソが頭を掻いた。
「そいつを川に戻すのを手伝ってはくれませんか。どうも俺じゃあ抱えていけないような気がするんだ」
カワウソの言うとおり、脇の下に抱えるのにしても、体の前に両手で抱えるのにしても、彼の体に対してこの魚は大きすぎる気がした。
「いいですよ。川まで案内してください」
私がそう言うと、カワウソはまた深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
なんて礼儀正しいのだろう。その滑らかな後頭部を見ながら、これまでカワウソのことを理由もないのに生意気な生き物だと思っていたことをこっそりと恥じた。

カワウソの後について、竹林を歩く。カワウソの背中というものを初めて見た。とてもツヤツヤとしている。腰のあたりに墨汁をたっぷりとつけた筆のような尻尾が生えていた。
「あんたさんは、旅の人でしょう?文字市でも見に来たのかい?」カワウソがこちらを振り向いて言った。
「旅人というかなんというか」
私は自分のことを話した。
「へえ!いきなり、京都にねえ。おかしな事もあるもんだねえ」
カワウソはワハハと笑った。
「なあに、気が済んだらすぐに元の路線に戻るはずさ」
駅員もそんなことを言っていたなと私は思い出した。路線をはずれた電車はどの辺りを走っているのだろうか。
カワウソとともに先ほどの鳥居の前を通り過ぎ、しばらく歩いていくと水の流れる音が聞こえてきた。進む先からヒンヤリとした風が吹いてくる。水の音が大きくなってきた。滝の音だ。竹林を抜け、視界が開けた。広い場所だった。目の前には、陽の光を受けてキラキラと光る淵があった。

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