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部落差別問題とは 後編


明治政府が行ったいわゆる解放令は、実質被部落差別問題の解決には至りませんでした。これは江戸幕府から続いた身分差別が、法令の力だけでは解決しないという事に異なりません。

解放令によって部落民が請け負っていた屠畜、皮革産業は、多額の資金を持った人達が近代化された技術を持って参入する事で仕事を奪う事になり、多くの部落民は職を失ったり、その工場の下請けに回らざるを得なくなりました。また、新平民として課税対象になった事で、平民との貧富の差は広がるばかりとなりました。

法令による解放令が力を持たない事で、トップダウンではなくボトムアップでの部落解放運動が求められる事になりました。
ここからは大正時代以降の部落解放運動について解説していきます。

①大正デモクラシー

デモクラシーとは、「民主的な、民主主義」を意味する言葉です。
大正7年、米価の高騰が原因で起きた「米騒動」には、生活に困窮する人々に加え、差別されてきた人々も数多く参加しました。
この米騒動をきっかけに、自分たちの差別を自分の力でなくすという様々な自治運動が広がっていきました。

この運動が「大正デモクラシー」と呼ばれます。
選挙制度、教育、労働者、女性の権利と合わせて、部落民の差別もその中に含まれます。

大正デモクラシーの動きを受け、「全国水平社」が創立されました。
「人間はいたわるものではなく、尊敬されるものである」という人権宣言は
日本における最初の「人権宣言」として高く評価されています。

全国水平社は、部落民に対する人権への意識を高めた事、社会認識を喚起した事に、大きな役割を果たしました。結果政府は、部落の生活を改善する為の予算を献上し、住宅や道路などインフラを整備する改善政策を実施しました。

全国水平社の働きは軍隊内の差別の糾弾にまで及び、あらゆる分野の差別の解放に取り組みましたが、日中戦争を始めとする戦時体制に運動は埋没していったのです。

②戦後から現在まで

戦後、日本国憲法により、すべての国民に基本的人権が与えられました。
しかし明治政府の解放令と同じく、政府は困窮にあえぐ部落民に対し、具体的な政策を打たず、部落差別に対する教育や啓蒙活動もなかった為、部落問題は依然として残ったままでした。

部落問題に対して政府が国の責務として動き出すには、さらに20年の月日を必要とします。
昭和40年に出された「同和対策審議会答申」により、国や地方自治体は本格的に部落問題解決に動き出しました。

その後も様々な部落問題解決の法律が制定され、平成28年に「部落差別解消推進法」が公布され、部落差別は許されないものという基本理念を定めています。国や地方自治体の責務を明らかにし、部落差別の解消を推進する事としています。

③無くならない部落差別

国が責務として部落差別に取り組んだ結果、現在部落問題は解決したのかというと、否です。
現在も部落差別は存在し、被部落差別出身者や、親族が部落出身という事だけで差別を受け続けています。

昭和50年に見つかった「部落地名総監」には、全国の被差別部落の所在地が記載されており、これを企業が購入していた事が発覚しました。また現在ではネットで同様の情報が流れたり、企業が調査会社に身元調査を行ったという事実もあります。

④部落差別を無くすために

日本は16世紀に鎖国令が布かれ、また単一民族である為に差別は少ない、と勝手に思っていました。しかしアイヌ族、在日朝鮮人、外国人、女性差別など様々な差別が存在します。

差別とは無知、知ろうとしない事と、差別する事によって利益を受ける人がいるからおこります。物事を詳しく知ろうとせず、世間のイメージが正しいと思い、それを無責任に発信してしまう。

人間に上下関係をつける事で、既得権益を独占したり、金銭的な利益ではなく、優越感やフラストレーションの解消を得る。

動物は、自らの力で他の個体に対し優劣をつけ、上下関係を作る。
固体が優劣をつけるのは本能なのかもしれません。

人間は知能が発達する代わりに、固体の力で優劣をつける事は日常生活では無くなりました。

差別とは、そのような歪んだ知能の発達が起こしたものなのかも知れません。

無知に対しては、啓発活動や教育で何とかなるかもしれませんが、
既得権益を望んで手放す人は殆どいないでしょう。

それが様々な差別が無くならない理由ではないでしょうか。

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