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[連載物] ダブルピン〜その4

 渋谷駅までもう数十秒しかない。イヤホンから流れる、ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」はちょうど8分をすぎるところで、コルトレーンのサックスが高らかなに鳴り響き最後の盛り上がりに差し掛かってきている。自分の鼓動もそれに合わせ早くなるのを感じた。


 もうここまでくると、自分の中にある親切心みたいなものがじわじわとこみ上げてくる。「伝えなければいけない」という使命。自分の右隣、左斜め前には他の男性の乗客が立っている。彼女にもし声をかけるなら自分は隣の男性を少しだけよけつつ、前に1歩踏み出し、そして少しだけ声を張って伝えないと電車の音にかき消され、伝えたいことが伝わらない。声が伝わらないと、自分はただの変な人に声をかけられたいう印象しか残せない、ただの変質者だ。だがここでもやはり「外し忘れ」ではなく「意図的」だったらどうしようということが頭をよぎる。でももし「外し忘れ」だとするとこの女性は気づいたときに恥ずかしい思いをするに違いない。あのカーラーをつけたまま改札を抜けていった女性はあのあといつ気づいたのだろうか。ささやかな恥ずかしい思いをしたのだろうか。美容師として、いや美容師だからこそここに気づいて教えてあげられるのだ。髪の毛に関するプロフェッショナルとして言うべきなのだ。

 サロンワークでもお客様の要望を聞いてばかりだと決していいサロンワーカーとは言えない。提案する、アドバイスするお客様とのキャッチボールがないと、お客様にとってただの言いなりになる美容師だ。それでは長いお付き合いはできないのではないか。お客様の間違ったホームケアに対するアドバイス、こうするといいのにと思うデザイン提案があってはじめて信頼を勝ちとる。それは的確かつスマートな言葉でなければいけない。それが、美容のプロフェッショナルとしてのあり方だ。だが間違えを正す、その勇気がその時の自分にはなかった。

つづく


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