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小寺の論壇:「他者理解の原点」の話

コデラが通った専門学校は、当時御成門にあった「音響技術専門学校」というところで、レコーディング技術者やPA技術者を養成する学校だった。今は名前が変わって、別の学校となっている。実はコデラが入学する前年まで学校法人格がなく、卒業しても高卒にしかならなかった(いわゆる「習い事」をしたのと同列)だったのだが、運良く入学年に専修学校になったので、高卒で終わらずに済んだのだった。

この学校に通ってくる子は、大きく2つに分かれた。マジメに音楽が好きで、どうしても何らかの形で音楽に関わっていたい者。ほとんどは髙校卒業から直接入学した者たちだったが、中には一度就職していたり、4大を出てから入り直したりした人もいた。業界に潜り込むには、どうしても専門学校を出る必要があったのだ。

もう1つは、大学に行く頭はないが、ぶらぶらもしていられず仕方なくどこかの専門学校に潜り込むことにした者。これ以上勉強する機はないが音楽は好きだからなんとなくそれっぽい格好が付くところへ来たが、なんか思ってたのと違っていて、「ケッ、バーロゥ」なんて考えていたものたちだ。

コデラは県下一の進学校出身ということもあり、専門学校での勉強は特に難しいとも思わなかったが、グループとしては前者でも後者でもなく、ただただ音楽は技術的にどうやって作られるのかが知りたかった。できれば音楽で食っていきたいとは思ったが、ミキサー卓の前に座ることが夢ですっていうのも違うしなーと、なにやら中途半端な立ち位置だった。

よって最初は前者のグループに居たのだが、なんだか目指すもののズレが次第に大きくなって、後者の連中と仲良くなっていった。

彼らはつまらない授業は最初の出席だけとったら、三々五々こっそり教室を抜け出して喫茶店で落ち合い、バカ話をしながらイヤホンで音楽をずっと聴いていた。コデラもたまにそんなことをしたが、毎回授業に出ないのではこっちだって知りたいことが学べないので、主につるむのは昼休みと放課後だけにした。

入学した1982年は、今にして思えば音楽的に混沌とした時代だった。パンクロックはとっくに廃れてファッションとして形だけ残り、そこから派生したニューウェイブが一番カッコイイとされた。そしてテクノは成熟と破綻のギリギリのところまで来ており、みんな自分たちを「ビョーキ」と名乗って精神疾患があるフリをしていた。

一方で当時のヒットチャートを振り返ってみると、オリビア・ニュートン・ジョンが「フィジカル」でレオタード姿を披露し、サバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」が大ヒットしていた。TOTOはアルバムIVから「ロザーナ」がシングルカットされ、ホール&オーツやフォリナー、ポール・マッカートニーがヒットチャートの常連だった。つまり王道ロックもしっかり稼げるようになった時代だった。

この2つの世界も、その音楽のファンも、当時の専門学校ではごっちゃに同居していたのだから、話が全然噛み合わなかった。いわゆるプログレッシブロックではASIAがヒットを連発していたし、ジェネシスはニューウェーブを意識した「abacab」をリリースして、オールドロック派からもニューウェーブ派からも「なんか違うよな」なんて言われたりしていた。

■タクちゃん

コデラは当時、ウエストコーストのアメリカンロックにはまっており、今ではスタジアムロックやヨットロックと呼ばれる音楽をよく聴いていた。なにせ田舎の情報源と言ったら「ベストヒットUSA」と雑誌「ミュージックライフ」ぐらいしかないのだから、致し方ない。

一方でケッバーロゥ派の連中は、ニューウェーブ・テクノしか聴かなかった。ヒット曲とは無縁の、XTCやウルトラボックス、そんなようなヤツだ。

そんななか、「タクちゃん」と呼ばれていた子だけはちょっと毛色が違っていた。フルネームは忘れた。確か名前が卓郎とかだったから、タクちゃんと呼ばれるようになったはずだ。

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