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小寺の論壇:コデラ的高橋ユキヒロ考

ここに来て昭和を彩った著名人が亡くなるニュースが連続しているが、1月10日のジェフ・ベック、続いて1月11日の高橋ユキヒロと続けざまに大スターが亡くなったのには、少なからず心折れた。高橋ユキヒロ氏は享年70歳(71歳とする報道もある)で、筆者と11歳しか違わない。

1970年代から80年代前半に日本でティーンエイジャーだった者にとって、YMOの影響下になかった人はほとんどいないのではないだろうか。音楽だけでなく、文化そのものがテクノに染まった時代である。

多くのメディアでは本名漢字表記の「高橋幸宏」で報じているが、テクノエイジをリアルタイムで生きた我々にとっては、カタカナの「ユキヒロ」のほうが断然しっくりくる。YMOとは、教授、細野さん、ユキヒロだったのだ。

筆者は音楽的には、YMOはあまりにもメジャーになりすぎて、積極的に聴くタイプではなかった。だが専門学校時代の1982〜83年の間、同級生の半数以上はYMOフリークであり、3人のソロも含め、積極的に布教してくれる人には事欠かなかった。よって自分ではレコードは所有していないが、一通りは全部聴いているという、不思議な距離感であった。

今振り返ってみると、YMOの出世作である「ソリッド・ステート・サバイヴァー」と、「浮気なぼくら」を除いては、それほどポップな音楽をやっていたわけではないと思う。当時の人気からすれば、意外な事である。

のちの3人のソロ活動から察すれば、YMOのポップな部分は、高橋ユキヒロが担っていたと思われる。だが、「ヒットメーカー」としてはあまり記憶されていない。確かに「ライディーン」はヒット作ではあるが、当時は総体としてのYMOが評価されたのであり、各個人のプロフィールはほどんと注目されなかった。

坂本龍一は、「い・け・な・いルージュマジック」で忌野清志郎とポップ路線でブレイクしたのち、「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」といった映画音楽で大家となった。細野晴臣は、松田聖子に「天国のキッス」、「ピンクのモーツァルト」「ガラスのプリズム」、中森明菜に「禁区」、安田成美に「風の谷のナウシカ」といったヒット曲を量産した。

一方で高橋ユキヒロは、楽曲としての大ヒットはあまりないが、とにかく多作の人であった。本人名義のソロアルバム23枚、ライブアルバム7枚、サウンドトラック6枚、ビートにクスとして5枚、そのほかpupaやMETAFIVEといったバンドからもアルバムがある。ドラマーのソロアルバムとしては、異様な数といっていい。提供楽曲も数多くあり、またドラマーとしても数多くのレコーディングに参加した。

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