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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第七講  ミロバン・ジラス


七〇年当時の私は、本当に世界のことについて無知で、なにも知らなかった。というより、不眠症のせいで、私は自分自身のことで精いっぱいだったので、外部に全く関心がありませんでした。ですから、これは、項目として挙げるには、そりゃ単に私がものを知らなかった、というだけの話です。が、しかし七〇年当時としてはそうであっても、今となっては、この人名を知っている人は、逆に少ないように思えます。
文庫版第五章に、ベンダサンが言う「日本人は人間を基準にした律法を奉じる『日本教』の宗団である」、という趣旨の言説があり、

恩田木工001

「(北条)義時はすでにその律法を知り、それにより明確に二権を分立した。従って神の義(絶対的正義)の地上における実現が政治の目標――これはユダヤ人も十字軍も神聖同盟も、またある意味ではアメリカ人もソヴェト人も、また、ミロバン・ジラスもそう考えたのだが――などと(恩田)木工が考えるはずもない」(九三頁)

――とあります。さて、「ミロバン・ジラス」って誰でしょう?
私は、その名前を知りませんでした。どこの誰で、何をした人かも判りませんでした。しかも、当時の私にそれを知る術はなく(通常の人名辞典に載るには、まだ早すぎた)、知らないまま十数年以上、放っておいたと記憶します。親に聞けば、たぶんその世代なら知っていて教えてくれたと思うのですが、反抗期だから、それもなかった。今ならネットで検索できますが、その頃は、そういう方法がありませんので、仕方がありません。

ミロヴァン・ジラス(Milovan Djilas)は、かつてのユーゴスラビア連邦人民共和国の政治家で、第二次大戦中、後のチトー大統領の右腕としてレジスタンス活動の司令官を務めた人です。チトーより二十歳ほど若い世代で、一九一一年生まれ、一九九五年没。チトーが亡くなったのが八〇年でしたから、その後もずっとユーゴの情勢を眺めつづけていたことになります。
戦後、彼は副大統領に選ばれ、チトーの後継者と見なされていたのですが、やがてチトーと離反し、反体制者となりました。共産党体制下で「赤い貴族」と呼ばれた「新階級」を告発する「新しい階級:共産主義制度の分析」(※1)を五七年に海外で刊行し、これは世界中に衝撃を与えて、四十カ国語以上に翻訳された由です。これによって彼は投獄されますが、戦時中の英雄ですから、チトーも処刑するわけにはいかず、懲役十年の判決を受けますが、四年で釈放されました。その後も、六一年に「スターリンとの対話」を刊行して、また投獄されています。

※1 https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAZ5PQ

八〇年にチトーが死去した後、彼はユーゴスラビアの崩壊を予測していました。
また、八〇年代後半には、セルビアのミロシェビッチを批判し、その結果において、他の共和国の離反を招き、民族紛争や内乱の末にユーゴが崩壊するだろうと予測しました。さらには、おそらくソ連もまた崩壊するだろうことを予見していたと言います。恐るべき先見の明です。

ユーゴスラビアは、セルビア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニアの六つの共和国からなる連邦政体でした。第二次大戦中、これらの地域は、ナチス・ドイツの支配下にありましたが、他の衛星国とことなり、ソ連によってではなく、チトー率いるパルチザン(ゲリラ)によって解放されたことで、ソ連(東側)陣営の中でも、特異な路線を歩むことが可能でした。いわば、自分たちで解放したのだから、ソ連には口出しできない事情があったわけです。しかし、それもチトーという偉大な指導者がいてこその話で、彼が死ねば、おそらくユーゴは乱れる。ただでさえ、あまり共和国同士は戦前から仲が良くなかったので、必ず内乱が起きる。ジラスはそう考え、そして不幸にも彼の予測は当たりました。

彼は、ユーゴ崩壊の予測に際して、「あなた方も理解しているだろう自由化に悪い原因がある(The liberalization you see has a bad cause)」と述べています(英語版ウィキペディアによる)。

長いこと、私は、なぜユーゴが崩壊して、その政治プロセスの中で、民族浄化が起こるのか判りませんでした。政治的人間ではないため、そういう理屈が理解できなかったのです。
後年(ソ連崩壊した後の九〇年代の本だったと思いますが)、浅田彰氏の談話を読んで、それがやっと判りました。今、ちょっとその本が出てこないため、出典が判らないのですが、おおむね、以下のようなロジックでした。

「共産主義ないし社会主義の連邦が崩壊すると、自由化となり、当然、民主主義が導入される。しかし、その瞬間、連邦内国家内で支配層にある少数の民族は自分の敗北が決まってしまう。崩れていく連邦の中で圧倒的多数者が別にいて、現在の体制でそれが抑圧されている場合、少数の圧制者は、我が手に武力がある内に、彼らを排除しないと、今度は民主主義の名の下で、自分たちが排除されてしまうことを本能的に判っている。だから民族浄化が起きるのだ」(大意)

――というようなものでした(正確な引用でないことは謝りますが、大体、このようなご意見だったと思います。八九年に、冷戦構造の崩壊を機に、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」が刊行されたのですが、これに対して、九〇年代初頭、浅田氏は批判的にこれを批評するため、フクヤマ当人をはじめ、スラヴォイ・ジジェクからJ・G・バラードに至る多方面の多士済々の言論人と対談し、それをまとめた「『歴史の終わり』と世紀末の世界」(小学館 九四年刊)を著すのですが、てっきりこれが出典だと思っていたら、そうした文言がどこにもなく、思いこんでいた私は焦ったのですが、それ以外の浅田氏の本は書籍流の彼方にあり、今にいたるも、不明です。正確な出典をご存じの方がいれば、ご教示願えると、ありがたいです)。

この意見は、非常に腑に落ちると同時に、私には実に驚愕すべきものでした。
私は、世代的に、戦後民主主義教育の子ですから、(さまざまな欠陥はあっても)民主主義こそが、社会を治めるのに最良のシステムだと教わってきたのです。それが、環境や状況によっては、民主主義を導入した途端に、一民族の国内での政治的劣勢や敗北までが決定してしまう。だから事前に挽回するため、場合によっては極端な政策として、民族浄化まで行ってしまう。という冷血かつ冷徹なロジックは、あまりにも、それまで私が学んできた民主主義の理想とは、かけ離れた血なまぐさい、そして現実的(リアリスティック)なものでした。
ユーゴスラビアのように入り組んだ連邦国家では、一つの民族が一つの国家を治めているとは限りません。ある一つの国の中で、いくつもの民族や宗教がモザイク状に混在していて、そのうち少数の民族が多数の諸民族を支配している場合もある。そうした地域では、確かに浅田彰氏が言うようなことも、起こりうるのでしょう。人間の恐ろしい理知の力を、まざまざと実感しないではおかない、今、そこにある事実です。

キリスト教徒が支配するセルビアでは、イスラム系住民に対する民族浄化(暴行と虐殺)が万単位で行われた、と聞きます。指導したのはミロシェビッチですが、民族的遺恨は、もっと以前から在ったとも言われます。すなわち、第二次大戦が始まる前から、民族間の不和はあったのですが、ナチス・ドイツの侵攻が始まると、王国が滅んだ後では、正義のためのレジスタンス運動さえもが分裂の様相を呈します。
当時、ドイツ侵攻により壊滅したユーゴスラビア王国では、二つのレジスタンス組織がありました。一つがチトー率いる民族混成のパルチザンで、もう一つが大セルビア主義と反共主義のセルビア将兵らによるチェトニクです。ところが、ナチスは、ドイツ軍の死者一人に対して、セルビア市民百人、ドイツ軍の負傷者一人に対して、市民五十人を殺害すると広報し、実行したため、チェトニクは独軍への抵抗を止めて、クロアチア国内でセルビア人虐殺が行われていることの報復として、クロアチア人らへの虐殺を始めました。
他方、チトー率いるパルチザンは元々、混成民族部隊ですから、そういった差別はなく、ナチス・ドイツへの抵抗運動を続け、市民の支持を得ました。さらにソ連軍より前にユーゴを解放することで、チトーは他の東欧諸国と異なり、ソ連の衛星国となることなく、独自路線を取ることが可能になったのも、戦時中のこうした現実や行動が背景にあると思われます。

ただ、こうした民族の不和や虐殺の歴史を古代にまで遡って、両者の間には、千年の血塗られた歴史があった、というような主張は(浅田氏が、上述の対談で語っているように)キャンペーンとして以外には、全く意味がありません。なんとなれば、チトーのユーゴより、さらに以前の、オスマントルコ帝国が支配していた時代のバルカン半島一帯は、わりと平和に種々の民族や宗教が混在し、住民は不満も不和もなく暮らしていたからです。それが、オスマントルコ独自の寛容政策によるものであったとしても、その地に長期にわたる平和があったことは事実なので、欧米列強が介入してから、ふいに民族間の不和が激化したのは、それなりの作為や、外在的要因を求めるのが、至当ではないかと思われます。

その一つが、いわゆる「民族自決(Self-determination)」の幻想でしょう。
民族自決は、固有の民族集団が自らの意志決定により、その帰属する国やその体制などを決める、という思想で、レーニンが最初に唱えたのですが、第一次世界大戦後に米のウィルソン大統領が講和の条件として提唱した原理です。これは列強に支配された植民地などが独立するには理想的な理念でありスローガン足りえたのですが、ユーゴのような複合国家になると、民族と支配・被支配関係がモザイク状に入り組んでおり、結果、ナチスのようにアーリア民族といった架空の民族概念を持ちこんで恣意的な民族による支配と、国内の少数民族の排斥をしたり、またユーゴでの民族浄化に至るといった悲劇を生み出してきました。これらの「主義」は結局、固有の民族の定義一つでどのようにでも変わるし、「帝国」の支配下にあった植民地での民族も単一ではない。また植民地制度内ですでに分割統治や中間支配層と被支配者層に分かれていたりすると、瞬時に悲劇を生み出します。民族自決は普遍的な主義や原理というよりは、最早イデオロギーと見なして、安直なその採択には慎重を期す必要があるでしょう。

さらに言えば、二〇〇〇年代の、セルビアでのブルドーザ革命などの、いわゆる「色の革命」には、米CIAが背後にあって暗躍し、ソ連崩壊後のユーゴでの民主化を拡大しようと計った、との疑惑が囁かれます。ヘッジファンドによって富をたくわえたユダヤ人、ジョージ・ソロスの財団が、資金を提供していたとも言われています。真偽のほどは確かではありませんが、アメリカにとって、かつて東南アジアで懸念した「ドミノ理論」の逆パターンである、「民主化ドミノ」を成功にみちびくために、滅び行くユーゴにおいて、米の工作員が活動したことは、ほぼ間違いないでしょう。
悲惨な出来事があいついだセルビアにおいて、もっと早くに軍事介入していれば、少なくともミロシェビッチの民族浄化などは避けられたはずで、アメリカとその連合国家の、ユーゴやコソボ紛争への立ち後れは、そうした作為ある革命の障害となる、との判断なくしては、説明がつかない気がします。


要するに、民族間の不和は、第一次大戦後のオスマントルコの衰退にともなう、欧米列強に都合のよい分割統治などに由来するものが多く、元から抜きがたい民族や宗教間の不和があったわけではない。ミロシェビッチがセルビア国内のムスリムを民族浄化しようとしたのは、上述した浅田彰氏の発言のように、民族自決や民族の純血主義を唱えて、その美名に隠れた覇権主義にもとづくものだった、と言うべきでしょう。ムスリムたちを家族ごと捕らえて、親の目の前で子らを犯し、子らの目の前で親の眼を抉る、そして殺害する、といったシステマティックに手順化された残虐行為は、そうしたことで民族間の不和を煽りたてる、アジテータの戦術でしかなく、元からあった民族不和が拡大したものではない、ということです。
かつて中東で、アラビアのロレンスなどによって英国が欺瞞にみちた空手形を切り放題に切って、オスマントルコ帝国の版図を分断しようとしたように、そのオスマントルコ帝国が存在した時代には平穏だったユーゴの地に不和を持ちこんだのは、世界の警察の座から滑り落ちた英国ではなく、今度はアメリカ帝国だった、ということでしょうか。
そして忘れてはならないのは、過去に巨大な帝国の版図を持っている国はどこもそうですが、その多くが独裁政権の為政者は常に、過去の栄光へと民族の目を向けたがる傾向も無視できません。イラクはバビロニアの、イランはペルシャの、それぞれ過去の大帝国を現在の版図の限界として主張するのですが、そんなものはマヤカシにすぎない。古代の帝国がいかに栄光につつまれていようと、関係ありません。どの国も、ただ現在をのみ正視すべきなのです。全てはそこから始まります。過去の帝国の版図など、現在を証しする何の権利でもないのです。

ともあれ、六六年末に釈放されたミロヴァン・ジラスは、それから逮捕・拘禁されることなく、ユーゴ内で自由に活動できました。西欧社会(西側陣営)からは英雄視する向きもありましたが、彼の心は常にユーゴと共に在った、と言えるでしょう。なにも欧米やNATOのために、彼は、国内で反体制運動に挺身したわけではないのです。
九五年に八三歳で亡くなるまで、彼は自由であり、つねに論争の人で在りつづけました。


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