回想

―― 廊下を急ぎ足で過ぎてゆく母の姿。

母は出掛ける時、いつも重そうな荷物を持っている。母は、私に「いってきます」という類の言葉は言わない。何も言わないし、私に触れることもない。

反射的に私は、短い足で和室の方へ走っていく。和室に置いてある、いつも祖父が座っている革張りのソファーによじ登る。庭に面した和室のガラス戸は、半分下側が葉っぱ柄の曇りガラスになっているので、小さい私は、このソファーによじ登らないと外が見えないのだ。

庭の奥に設置されたガレージの方へ目を凝らすと、後部座席に荷物を放り込み、そそくさと車に乗り込む母の姿が見える。少しすると、母を乗せた白い車が、私の目の前を通り過ぎて庭を出ていく。私は、毎朝その様子を、ひんやりしたガラス越しに見ているが、母がこちらに視線を向けることは無い。

「あーあ、お母さん行っちゃった。」私が残念そうに呟くと、祖父が優しく微笑みながら、そっと私の頭に手をのせてくれる。


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