カルチャーとはなんであったか

 世の中がコロナ以後に突入してから数年が経ったが、世界は合理化の波の中にある。あくまでも表面上としての合理化だ。
 この世の中で、いま、運命を信じることは難しい。男女の間でさえ合理によって結ばれている。カルチャーとは、つまり運命だったのだ。あなたは今の時代に、運命を信じられるか。あなたのそれは、はたして合理によるものではないだろうか?
 昔の映画を観ると、映画というものはなんと運命の多いことか。いま、映画からは運命が消えた。どこを見回してもそれは合理だ。合理による、やりとりを描いているのだ。なんせ国民総出で株を始めるように勧められているのだ。株というのは、まさに合理だ。株式は逆算の地面の上で逆算を行うという行為であって、運命とは真反対のものだ。運命というものは絶えず、合理を逸脱し続けていく。
 いま世の中はカルチャーを必要としているだろうか? この問いは、このように言い換えることができる。今の世の中には運命を必要としていないのではないだろうか、というように。
 しかし、世の中に聞きたいことなどないのだ。あなたにカルチャーが必要であるか、それがなにより問題なのだ。一度しかないあなたの人生に運命が必要であるのかどうか、である。そのとき、あなたはこの波の中で運命を握りしめて、世界に言ってやらなければならない。「わたしは生ある人間を笑顔にしたり、楽しませたり、心の奥からうっとりさせたり、喜ばせたり、つまり愛することができる。あなたたちは本当の意味で人を愛することができない、ただ老人である」と。
 そして、あなたは進まなければならない。この波に飲まれないようにして。目の奥に輝きの無い人々の波を裂いてどこまでも、どこまでも行くのだ。

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