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5時就寝、14時起床

「無職って、一日何してるんですか?」
ここ1ヶ月、この質問を数えきれないほど受けてきた。
ひとまず「5時に寝て、14時に起きてます」と答える。

この3月に大学院を出て立派な無職となった私は毎日非常に楽しく過ごしていて、かけがえのないこの日々を心の底から大切に思っている。
無職にも向き不向きがあると思うが、確実に、私は無職に向いている。自信を持って言える。
とはいえ、この生活も着実に終わりが見えてきている。金銭的問題のみがその理由である。

人生のなかで最も素晴らしかったのは、コロナ禍が始まりオンライン授業になりバイト先が潰れ、日がな一日家に籠り続けていた4年前の数か月だと常々思っている。毎日を過ごしながら、「私は本当に無職に向いた人間だなあ」と思っていた。あの日々をもう一度欲した私は、このチャンスを逃すまいとまたもや無職期間を手に入れたのである。

だからと言って、外に出るのが嫌いだとか、人と話すのが嫌だとか、そういうことはない。大学院生をしていたころは、大学が好きで好きで仕方がないから毎週月曜日が来るのを本気で楽しみにしていたし、土日のアルバイトも楽しみで仕方がないので金曜日の夜も大好きだった。
ちなみに、無職期間の次に人生のなかで最も素晴らしかったのは院生をしていた2年間だと思っている。

14時に起きると、もう既に陽は高く昇っている。ゆっくりと朝ごはんを作り、メールやLINEを返しながら食べる。

毎日家の中に籠っているとも限らず、案外気が向いたら外に出る。誰にも急かされることなく準備する。パソコンと本を持って、近所の大学に行ったり、図書館に行ったりする。本を読んだり、気になったことを調べたり、知らないことを勉強したり、毎日することはたくさんある。

19時くらいには家に戻って、家族の夕食を作る。ごはんを食べて、生活らしいこと(風呂とか)を済ませたらまたしても自由な時間。

illustratorやPhotoshopを触ったり、本を読んだりする。
今は『汚穢と禁忌』と『胎児の条件』を読んでいる。『汚穢と禁忌』はふせんまみれになっていて、読みながら思いつくことが気になって別の本を開いたり、Wordでなにやら書いたりしてなかなか進まない。『胎児の条件』は友達と話したいからしっかりめに資料を作ったりしている。
それらと並行して、積んでいる小説たちも読む。最近は堀田善衛の『路上の人』と、安部公房の『けものたちは故郷をめざす』を読んだ。
私は友達のことが好きなので、友達の研究対象の本を読む。友達がいなかったら、あるいは文学専攻の友達がいなかったら、私はきっと延々とSF小説だけを読んでいる。実際大学院に入るまでは身近に小説を読む友人も文学を専攻している友人もいなかったものだから、ずっと、ただひたすらにSF小説だけを読んでいた。

勉強したり本を読んだりしていると、気付くと窓からやわらかい朝日が差し込み始める。別に眠くはないけれど、ベッドに入る。小鳥のピヨピヨと鳴くかわいらしい声が聞こえる。太陽と鳥は活動し始めているけれど、まだ多くの人間は眠っていて世界は静かだ。ゆっくりと眠りにつく。目覚ましのアラームは必要ない。


いくらなんでも、5時から14時まで寝てるのは寝すぎじゃないかとも思うのだけれど(9時間睡眠!)、一度も目を覚ますことなくしっかり寝続けているのだから仕方がない。院生のころは4~6時間睡眠で十分活動ができていたので、あの2年間のしわ寄せが今来ているんじゃないだろうかと不安になる。
稀に「寝るのが趣味」みたいな人がいて、彼らのことを私は疑問に思っていたけれど、毎日9時間寝られる私は寝るのが趣味なのかもしれない。

私はどうしても朝が弱い。今働いていない理由の90%は「朝起きられないから」である。多分、世の中の多くの人からしたら、鼻で笑って吹き飛ばせてしまう甘えた悩みに聞こえるんだろうと思う。でも、私にとっての「早起き」は生活の中での最大の脅威で、本気の大問題なのである。頑張ったらどうこう、みたいな話ではなく、ほとんど「不可能」に近い。24年生きてきて、午前中に良いパフォーマンスが出来たことなんて一度もない。

早起きができない、というのは、ただそれだけで現代の日本社会に全く適合できなくなる。
世の中は朝9時から動き出すことを前提に全ての社会が成り立っている。朝起きられない奴は社会のマジョリティから放り出されることになる。

学部生の時、先生に「他の人が苦しみながらする作業を、苦しまなくてもできる、ということがあれば、それは〈得意〉と言って良い」みたいなことを言われたことがある。

他の人、しかも社会全体は早起きを当然のものとしていて、そのために私は他の人より大きなダメージを受けながら適合していく必要がある。みんなは「早起きが得意」なのに、「早起きが得意」な人がマジョリティだから、「得意」は「当然」になってしまう。だから私はこの社会で「当然」のことを実行できない社会不適合者となる。
義務教育であれだけ強制されたはずの早起きを、未だに体に馴染ませることができないのだから、もう本当にどうしようもない気がする。


今、毎日がほんとうのしあわせに満ち溢れている。自由だ。本当は、別にどこにいても自由なんだけれど、今の生活が本当の自由だと感じる。「勉強したい」「研究したい」「本を読みたい」とは毎日のように思うけれど、「労働したい」と思ったことは人生で一度もない。

私は就活する友人たちを見ながら、なんで労働したいと思えるんだろう、とずっと思っていた。でも話を聞いたら、みんな労働したいとは思っていなくて、それを生活に必要なこととして割り切っているみたいだった。
私はそれを割り切ることはできない。ワークライフバランスとか嘘だと思っている。ワークもライフの一部でしょう。

ライフの中にワークがある、というか、ライフが自然とワークになる職業が、小説家と大学教員だと思っていた。だんだん大人になるにつれて現実が見えてくると、案外小説家も大学教員も、したくない仕事もしなきゃいけないんだな、というのがわかってきた。
「他人の苦手とすることを苦なくできることが〈得意〉」という話をしてくれた先生は、全身ヨウジヤマモトに身を包み、黒髪に赤色のインナーカラー、オープンカーに乗っていた。「大学の先生だ!」と感じたのを覚えている。やっと最近わかってきたけど、これはレアな大学教員だ。

「自由」にもいろいろあるけれど分かりやすいのがやっぱり見た目の自由だ。
以前仲良しのフランス人留学生と就職の話になり、その時私は自分のブリーチした髪を指して「こんな髪色だから就活なんてできないよ」と発言した。彼女は一瞬、「意味がわからん」という顔をしたのち、すぐに納得して爆笑した。「フランスだったらショッキングピンクの髪の司書もいる」と言った。
私の脳みそのなかだけは、絶対に自由でありたかったのに、私の脳みそに既に「当然」のルールがしっかり根付いていたことに気付いて、ショックだった。私だけは、せめて脳内だけは本当の自由を信じていたかったのに、自分で自分を縛っていた。

3時になった。もう少し、本を読んだりして、空が白んできたら眠りにつこうと思う。明日は髪を水色に染めようかと思っている。


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