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一番のもの

2019年、『三体』が日本で発売された。劉慈欣さんによるこの中華SF小説は翻訳の発売前から相当の話題性を持っていて、SFオタクの私は発売を心待ちにしていた。

発売日から数日遅れて『三体』を購入し、買ったその日に読み始め、買ったその日に読み終えた。衝撃だった。

本好きの人がそれほど多くない現代社会で、本が好きという話をすると、「一番面白かった本ってなんですか」といったことを聞かれる。誰だってそれぞれの分野で聞かれたことがあるだろうけれど、この質問はすごく難しい。
でも、『三体』を読んだ日、私はこの回答を得た。

私はSFオタクだけれど、特に80年代から90年代にかけての「サイバーパンク」と呼ばれるジャンルが好きで、古本屋でそれらを買い集める高校生活・大学生活を送ってきた。
私は2000年生まれで、その時代のリアルを知らない。あと40年早く生まれていたら、と何度も思った。大好きなものたちと、私もリアルタイムで遭遇したかった。どうして今、私は一人で過去を見ているんだろう。なぜ、過去はこれほどまでに私の好みのコンテンツで溢れているんだろう。あの時代に、10代、20代を過ごせていればどれほど良かっただろう。
ずっとそうやって過去を見つめてはくつがえしようのないことで悔やんでいた。

『三体』を読んだ日、「私は『三体』を読むためにこの時代に生まれたんだ」と思った。間違いなく、これが一番の読書体験だと確信した。後にも先にも、これ以上の読書体験はないだろう、と思えた。


「一番面白かった○○ってなんですか」、という質問は、答えることが難しいだろうことがわかっていても、それでもしたくなってしまう質問だと思う。私も人に聞いてしまう。そして相手の悩んでる顔を見て、「それな~」って思ってる。その苦しみは自分も体験していて、わかってるのにしたくなる。

自分にとって一番の、そういう文化的体験で「もうこれ以上のものなんてない」と思えたのはすごく少ない。感動したことはいくつかあるけれど、『三体』を読んだ日に自分が受けたほどの衝撃は比べようがない。

高校生の時、3日間の舞台公演を終えた日は似たようなことを思った。「これ以上の日はない。人生で最良の日々がこの3日間だ」と思って、その先のことを考えて軽く絶望した。これを上回る日なんて来ない人生を、どういう風に受け止めればいいのかわからなかったから。

「一番」に関する質問で、質問者回答者双方が言外で、そして根底で重視しなければならないのは、コンテンツそのものではなく、回答者の「体験」であることだと思う。それはとてもパーソナルなことで、大事なことで、だから聞きたいのである。

自分のnoteを読み返すと、毎回のように「大学の先生が○○と言っていて、それが印象に残っていて……」みたいな話を毎回している。
また同じようにここでも大学の先生が言ってたことを書くのだけれど、「優れた文学作品とはなにか」という話で、「読んだ後、読む前の自分に戻れなくなってしまうもの」であると話されていた先生がいた(ちなみに、この話は『回遊』第二号に載っている)。
不可逆的な変質が起こってしまうようなものが、良い文学である、というこの話はまさに個々人の「体験」の話をしている。これは文学に限らず、あらゆる文化コンテンツに言えると思う。

つまり、そのものの「良さ」は流動的なもので、『タイタニック』が名作であることは当然としてもそれを、どんな人が、どんなタイミングで、どんな場所で、どんな人と一緒に・あるいは一人で、どんな状態で見たのか、こういったことが物事の「良さ」を決めるのかもしれない。物事とその体験は綿密に関わり合っていて、「良さ」は常に変わり得るのだと思う。

「一番面白かった○○はなんですか」で聞きたいのは結局のところ、この個人の変質体験を聞きたいのである。だから概して「一番面白かった」は「一番最初の」と合致しやすい。最初の物事体験は絶対的にそこで不可逆的な変質体験となっているからだろう。

私にとって『三体』が一番の読書体験だったとして、では万人が『三体』を読めばそれが一番の読書体験になるのかというとそんなことはない。
でも、あらゆるなにがしかが誰かにとっての「一番」になっている可能性があって、それは素晴らしいことであるし、願わくば私(たち)の作ったなにかがそうなればこれほど素晴らしいことはない。

そういう風な「良い」文化体験は確かにある。

音楽。私は「音楽を聴くのが好き」という感情が全くわからなかった。小鳥の声や風で木々が揺れるざわめき、人が鼻をすすったり、鉛筆がノートに擦れたり、そういった世界に存在するすべての音と、「音楽」と呼ばれているものの差異をそれほど強く感じていなくて、「音楽」はただ「音」だった(今考えると、本当に過去の私が信じられない)。
ある日ラジオで流れてきた「音」を聞いた時に、「これが「音楽」だ」と確信した。急いで調べた。GLIM SPANKYというロックユニットで、この上なく格好いい二人組だった。初めてライブに行って、なんだかわからないけど涙が出た。「音楽で人って本当に感動するんだ」って思った。
5年くらいグリムの曲だけを延々と聞いていた。Spotify有料会員だったのに、「マイライブラリ」にはたったひとつしか名前がなかった(今考えると、これも本当に気がおかしいとしか思えない)。
今は、少し偏っているけれど結構音楽を聴くようになった。

舞台。ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの『砂の女』(安部公房)。
それまで、舞台演劇っていうのは良い俳優が良い喋りを板の上でやることだと思っていた。素舞台で、なにひとつ小道具がなくても、照明が一つも変わらなくても、音楽が鳴っていなくても、たった一人俳優が喋ればそれは演劇で、成立しうる、と考えていた。今でもそう思っているが、「舞台演劇って総合芸術だ」って強く実感したのはこれだった。劇団四季とかを見た時にそう思ってもおかしくないのに、なぜこの作品(タイミング)だったのかは不思議だ。
映し出された映像と舞台道具のリンク、そして何より上野洋子さんの生み出す音。終演して席を立つとき、自分が砂まみれのような気がして服を払った。払ってから、「そんな訳ないだろ」と思った。こんなに遠くて安い席で、知らない人と隣同士肩を並べて、2時間ちょっと座っていただけで、砂まみれなんてことがあるはずがないのに。

絵。石黒亜矢子さん。猫又の絵があって、それを見て、衝撃を受けて受けすぎて、「これをタトゥーとして体に刻み込みたい!!!!」と思った。人って、絵を見て体に刻みたくなるんだ、って思った。結局掘ってはいないんだけど、もし入れるとしたら石黒さんの絵がいいなと思う。
それから人の絵を見る時、私はこれを体に刻みたいか、という視点で見るようになった。加えてタトゥーのことも好きになっちゃって、刺青関連の雑誌とかを買うようになった。

映画。難しい。色々思いつく。『ブレードランナー』かな。『スターウォーズ』かもしれない。幼少期の記憶で言えば『チャーリーとチョコレート工場』と『パイレーツオブカリビアン』だ。初恋はジョニー・デップだった。最近だったら『テネット』かも。『テネット』を見てから、なにかというと時間の逆転の話をするようになった。この大サブスク時代にブルーレイを買ったりなんかもしたし、新鮮な記憶で言えば『テネット』だろう。


自分の好きなものの話をするのは、ちょっと恥ずかしい。この上なく「自己暴露」だ。人の本棚は見たいけれど、自分の本棚を見せるのは恥ずかしい。でも見てほしい気持ちもある。私の本棚は私のパーソナルなことをこれでもかと表している。私の人間性が全部わかられてしまうような気持ちがある。
数年前は特に本棚は恥ずかしくて堪らないところだったけれど、今は少しマシになった。興味のない本でもひとまず買ってみることが増えたし、研究関連のものも増えたから、個性の部分が隠れて穏やかになった気がする。

いつもnoteの文章はあっちこっちに散らばって、最後めちゃくちゃになる。散文であることこの上なし。ちゃんとした文章は『回遊』に載せるだろうから、ここはこれでいいか。
『回遊』は私にとって一番の雑誌だ。

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