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他者に迷惑をかけてはいけない、という呪い " PLAN75 "

映画館でようやく『PLAN75』を観た。

75歳から自身の生死の選択権を与える制度、通称"PLAN75"が国会で可決され、施行された日本の話。

観客はおそらく50代オーバーが圧倒的に多く、それがより一層べったりとした嫌な感じを纏わせていた。

昔のnoteにも書いた気がするが、私は死刑の罰性というものは自分の死への主体性を奪われることにあると思っていて、私は自分の死は災害や事故でやむを得ない場合以外は自分で決めたいなと思っている。もちろん、よほど未練になるほどのやり残したことが無い場合は、災害で死ぬのが一番だなと思う。誰のせいにもならないし禍根も残らず、不運だったねで終われるからだ。

今回この映画に描かれる"PLAN75"は、その逆、つまり死への主体性を奨励するカーペットが国によって目の前に引かれている。
気持ちが悪いのは劇中で描写されるロゴやコマーシャル映像、民間企業のサービスは行き届いている、などあまりにもリアルであること。生まれてくることは自分では選べないから、せめて死ぬ時くらいは自分で決めたいだなんて前向きに死を選択する"主体"を強調する、白くて明るい映像。制度の導入で経済効果が、というニューストピックを読み上げるアナウンサーの声。
申し込んだ人に給付される、好きに使って良い"支度金"の10万円という額。

いまの日本では良くも悪くもこんなに振り切った政策が実行されるわけがないと頭では分かっていつつ、もしいざ決まればこうなるんだろうなという趣味の悪い空想が、余すことなく、決して甘くなく、残酷なまでにリアルに設定されている。

根幹として嫌なのが、この主体性を支えるのが"他者に迷惑をかける"ことへの忌避感だ。
後期高齢化社会では、高齢者の存在は"迷惑"だ。というか、高齢者でなくても迷惑視される存在なんていくらでもいる。
津久井やまゆり園での事件で犯人は障害者の存在は迷惑だからと主張していたし、街中に出ればホームレスが居座ることを防ぐためにデザインされた排除アートが至る所に設置されている。
駅の改札で立ち止まることは迷惑だし、会議や組織で上の立場の意見に異を唱えるのは迷惑だし、もっと言えば女が結婚も出産もせず誰にも養われず一人で生きていくのだって少子化問題から見れば迷惑だ。

私たちは他人に迷惑をかけることを悪として刷り込まれて育っている。叱られる時は大抵、迷惑がかかるから、と言われた。
どんなにルッキズムやエイジズムから逃れても、そこから逃れられた理由は「自分がどんな容姿でも年齢でも、他人に迷惑かけてないし」でしかない。つまり、他者に迷惑がかかるのであれば、気にし続けなければならない。

迷惑をかけたくない、迷惑をかけてはならないという気持ちが強力に働く社会であればあるほど、PLAN75は上手く機能する。
周りからはみ出さず均質であれという圧力と教育が、こんな形で"有効"に使われる未来なんて想像もしたくない。

実際、自分の老後どころか5年後の想像すら本当につかないが、もし自分が75歳になった時この制度があれば、ああ嫌だなぁと思いつつも申し込むんだろうと思う。
他者に迷惑をかけてはならないという呪いは、薄めることはできても自分の中から完全に消えてなくなることはきっと一生ないだろう。