数億年ぶりに映画を見た感想

 若いってメンドクサイ。自分語りをしようとは思わないがそんなことは思う。このめんどくささは社会の中でうまくいっているいっていない以前のめんどくささである。自分が自分であるということ自体がめんどくさいし他人が存在することも億劫になるあのめんどくささだ。その意味でも僕と君だけが存在し、僕は僕でなく君であり君は君でなく僕になるという世界(自分あるいは他人がめんどくさいという事実をとっかえっこし、入れ替わりをし、自分がめんどくさい/他人がめんどくさいという感覚をメタ視点で処理している)を描いた君の名が受けるということはよくわかる話だ。

 漫画原作の映画「恋は雨上がりのように」を見た。作家を夢みてはや20年以上たち、今やファミレスのダメ店長(バイト内から下に見られる)になった男主人公の近藤に対して密かに思いを寄せるのはバイトで勤務している女子高校生の橘だ。橘は中高とも陸上部で優秀な戦績を修めていたが、アキレス腱のケガにより走ることができなくなる。そして病院帰りに寄ったファミレスで憂鬱な気分になりながら外を眺めていると、店長である近藤がその姿を見かねてコーヒーを無料でサービスしてしまう。この心遣いに惹かれたのをきっかけに陸上という夢を捨てて、恋という新しい道を歩もうとするも中々うまくことがいかない。映画の趣旨はそんなところだろうか(長いわ)。こう書くと橘が一方的に好きでそれが店長に伝わらないという印象を受けるかもしれないが、実際は店長が(店長は結婚と離婚をしており、しかも相手が従業員でしかも未成年なため)常に受け身の連続なためすれ違いが続くという方が近いだろう。夢から恋という転回が物語の骨組みを作っていることは間違いないが、僕が重要だと思ったのはその手前(あるいはそれにいたる/いたった後における)夢の再発見というメッセージだ。実は店長である近藤は小説家という夢を捨てていない。半分諦めながらもアパートの机には原稿用紙と万年筆が置いてあり、元陸上部だった橘もスパイクとユニフォームを手元に残している。この作品を見てクリティカルだと思ったのはこの半分諦めて半分諦めていないという状態は恋愛のロジックでは覆すことができないということだ。つまり、夢を追いかけるか恋愛を取るかという2者択一を暗に迫られるのである。そして、中盤以降ではそれぞれの友人を介して恋という回り道をしながら夢の再発見がなされる。夢なんていうと大げさかもしれないが何か漠然とした心の穴を埋める目標の再設定だ。

 店長である近藤は作家という夢を叶えた友人に対して屈折した思いを抱く。しかし、その心と向き合うためにもその友人と飲みに行く場面がある。そこで得られたであろうことは、僕的にいうとめんどくさいと思っていたことは実はめんどくさくなかったということであり、自分と他人の距離、あるいは自分と自分の適切な距離の取り方を確認したということだ。そして、橘も友人、あるいは他校のライバルに触発されてアキレス腱が治った後陸上というめんどくさい世界に向かい合うことになる。そこで見える景色は陸上をめんどくさいと思った(諦めた)時とは全く違う景色でありきっとめんどくさいなんて文字はどこにも見つからないだろう。

 めんどくささはまだ何も見つかっていない状態でもある。めんどくさいの反対はめんどくさくないではなくもっとポジティブなものである。楽しいとか嬉しいとかそんなことを思える時がめんどくさくないことであり、人と人の繫がりはそんな前向きな気持ちを確認し合うためにあるのだろう。

 

 

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