電脳(ゆめ)で逢えたら ~26歳の誕生日に寄せて
1995/5/15から数えて26年目の誕生日を迎えました。
注意事項
僕の文体はどちらかと言えば「共感」寄りに大きく振れている。
僕は自分の感想を分かってもらいたいだけで、ここに書かれた諸問題を解決するための具体的な方策や指示が欲しいわけではない(生活環境の改善策がことごとく失敗しているのも、それを裏付ける証拠である)。
ただ、僕の思いを文面上から想像し理解するだけに留めておいてほしい。
そもそも、ハレの日である誕生日なのにこんな鬱屈としたエッセイを部屋に籠って書いているのだから。
初夏の挫折
「5月26日までに現状の生活態度が改善しなければ、スマホを解約する」
心療内科の医師との口約束は、僕にとっては高専中退に次いで二度目の「思想の敗戦」だった。
すなわち「このままずっと、毎日ツイッターやニコニコ動画やYouTubeを見て暮らしたい」という思想の。
夜を徹し、時間と健康を浪費し続ける限りにおいて医学という合理的な見地からは切除されて然るべきそれを愛するがゆえに、僕は敗けた。
ただ僕はインターネット有害論を説きたいのではなく、「夜見れないなら昼間に見ればいいじゃん」というそう言われれば当然のような解決策を聞きたいのでもなく、自分自身の意気地の無さにどうしようもない行き詰まりを感じている。
スマホを封じられたくらいでこの依存症は治らない、と思うからスマホを手放すことを口約束であっても半分は受け入れているのだ。
自分では健康のためになんとかしたいと思っていても、何らかの手段でネットにつながることに無自覚かつ無批判でいられるからいつの間にか画面を流れる情報に気が済むまで溺れている。
結局その根本的な原因は何なのか突き詰めて考えると、現状に対する不満からの一時的な逃避行為に見えてくる。
どれだけのつぶやきに共感しようと、古本を床に積むほどモノで溢れた自分の部屋は片付かない。
どんな動画に感情を揺さぶられようと、画面を離れた現実世界に何ら影響を及ぼさない。
「今ここで、自分から行動を起こして周囲の環境を変えよう」という努力の放棄。それほどに強固に見える「日常」というバイアス。「流れ」に逆らわない極めて日本人的な特質。
あるいはそれが「認知の歪み」というものなのかもしれない────間違っているのは僕の方なのかもしれない。
カフェインの入った飲み物も、パン・麺・丼物も、そしてスマートフォンも、僕の身体には毒だからと切り離されていく。僕の環境と健康をより良くするために、僕の「日常」から選択肢としては消えていく。
医師のアドバイスを受けてから僕なりに生活改善をしようと思っても結果が伴わないことについて「僕は悪くない」「僕はこんなに頑張っているのに」と感情的になってわめくことは簡単だが、いっこうに良くならない睡眠の質や食事の質が、「お前の生活態度が悪い」とハッキリ言い当てている。撃沈。
確かに気分が落ち込むと何もかもどうでもよくなって風呂にも入らずツイッターばかり貪るように見ているし、面白いテレビや生配信があれば夜遅くでも見るし、自分で料理を作らないから家族が用意する総菜パンやカップ麺や冷凍パスタや焼きそばや親子丼を食べている。本格的にやめたのはコーヒーや紅茶を飲むことだけだが、チョコレートは絶っていない。
僕の「当たり前」は医学的に否定された。何も反論できなかったのでこうしてネット上に愚痴をバラまいている。向こうにとっては甚だ迷惑な話だ。
いくら気合を入れ直しても根性を試しても、だめなのだ。目の前に置かれたケーキを食べずに腹を空かせたままでいられるほど、人は強くない。
しかし僕にとってそのケーキを取り上げられるということは、たとえそれが満たされない欲求を束の間隠す「大衆の阿片」のようなものだとしても、ケーキも食べられないなんて、という心の切なさを感じて、つらいのだ。
まあ、高専の単位を落とすぐらいのめり込んでいた今までが異常だったのだと言われればそれもそうなのだが。
26周年目の世界で
10年前からツイッターをしてきて、それが現実の僕自身に何か影響を与えたことがあっただろうか。
ネット発のサクセスストーリーにあるような、空間を越えた人と人とのつながりに、僕は加われていただろうか。
現実世界の僕、それこそ「普通」から数年遅れて社会人としてこれからやっていかなければならない所にいる僕はそろそろインターネットを通して何かを成すという幻想から目覚めなければならないのだろうか。10年間だらだらとツイッターで毎日起きている事件を目にするだけだったことを、損切りの理由として。
スクールカーストの底辺で自尊心を失った小中学時代、祭の売り子をやる以外には無能の証明をしたような高専時代を経て僕は精神的に追い詰められると「死にたい」という最低最悪の思考に支配される。
スマホをやめろ、と言われた瞬間も僕は泣きながらスマホと心中するつもりでいた。けれど後から、きっとスマホと入水しても僕の方が先に川から上がるだろうなと思った。
命はそんなに軽々しく質に入れていいものではない。だけど僕は、何かあったら真っ先に自分の命を差し出そうと妄想して生きてきた。それは、評価の悪い僕でも最後に光るものがあるとすれば自分の(人間の)命だと思っていたからだ。
幸いにして、死なずに四半世紀を生き延びてきた。多分今後も、そんな鉄砲玉的思考を発動するのはゲームの中だけで十分だと思う。
だから僕は、これからも、苦しみながら(泣きながら)生きていく。せめて奪われ、失うだけが人生ではないということを、知るために。
(終)
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