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夏の空想という怪物に挑む

長期休みがなくても夏は夏

 一年ぶりに冷房が28度でも外気温35度よりはマシという季節が来て、夏を自覚する。

 夏と言えば本邦では田舎に涼を求めた夏休みの少年が向日葵畑で麦わら帽子を被った白いワンピースの少女に会うと相場が決まっている。

 しかし僕にはそんな甘酸っぱい思い出も、何かそういった特定の作品に心の汗を流したこともない。

 僕にとっての夏とはすなわち夏休みというモラトリアムであり、映画館で見るポケモンの劇場版であり、TVで見るウルトラマンであった。

 あるいは人並みに学友や保護者たちとどこぞの校庭でキャンプをしたり、晩夏の祭りの出店に目を輝かせたりした、夏の夜の記憶でもある。

 つまるところ、夏とはそういった非日常体験を浴びるように楽しめるボーナスタイムなのだ。

原盤の配信がないのでカバー曲を引用する

 ただ夏であるというだけで、空想の力にはブーストがかかる。少なくとも僕はそう信じている。

 例年7月から8月にかけて、僕は気が大きくなる。具体的にはぼんやりとした空想の力を信じたり、大きな買い物が増えたりする。

 万事そんな調子であるから、ここでひとつ何か大仕掛けな小説を書いてみようと発起してみるのだが、それを毎年のように繰り返しては無期限に中断している。

ここから下は色んなとこでいつも書いてる創作関連の愚痴

 創作ハウツー本を開いては何か理解した風を装い、どこにもない手本を探してインプットなる自慰行為に逃避する……あまりにもいつものパターンで、夏が終わってしまいそうだ。

 元来、僕は理詰めで小説を書かない「憑依型」の物書きだ。

 インプットをインプットとも思わない日常生活の中で「おりてきた」シチュエーションに萌え、ほとんどは自分にしか面白味がないそれを飲み下して満足してきた。

 あるいはその「おりてきた」キャラクターやシナリオを途中で舗装しながら物語としての枠組みを与え、およそ3000文字数からなる小説と呼べそうなテキストにもしてきた。

 しかし、この小説らしきものを「より多くの読者に読ませて面白がってもらう」領域にまで高めることは、少なくとも「ななみね・らいが」という筆名を名乗るこの13年間で一度も達成されなかった難行だ。

 結論を述べると、僕が小説家を目指すことは無理である。

 まず、小説を書かなきゃ餓死ぐゎしするというくらいのハングリーさがない。

 次に、一日のルーティンの中での「小説を書く」あるいは「小説を書くための努力をする」というタスクの優先順位が、三度の飯より低い(編注:三度の飯の中でも「朝食」は「インターネット」より低い)。

 最後に、生き馬の目を抜くネット文芸界に小・中学校仕込みの作文力で挑もうとしている、筆力不足だ。

 このままパートタイマーとして銭を稼ぎながらよしなしごとを自分の言葉だか他人の受け売りだかわからないような文体でnoteや現Xに書いていくのもいいだろう。

 しかしそれでも、そうだとしても僕の創作の筆が折れ、砕けていなくなってしまうことは無かった。

 なぜだろう。人はそれを横着だとか、愚かだとか言うかもしれない。

 わがままで結構じゃないかと、思う。

リアリティを伴うフィクションである、という創作の矛盾

 夏の空想する力について話を戻す。

 夏(休み)の本質は非日常体験のボーナスタイムであろう、と先に書いた。

 非日常体験とはつまり、社会生活のあれこれについて一旦棚上げしよう、ということだ。

 通勤通学。各種支払い。ゴミ出しや生活必需品・消耗品の補充管理。食事(特に栄養管理)、排泄(または下水処理)、エトセトラ。

 一旦その事は棚上げしていま・ここを楽しもうというのが、非日常体験の本質だ。

 それは何もハレの日の行事に限った話ではなくて、おやつやジャンクフードを食べることもまた一種の非日常体験であると最近の僕は考え始めているが、まあその話は別の機会にしよう。

 だからこそ地に足つかず浮足立っているというのか、僕の信じる空想の力というのは、そうした現実世界でのまったく正しいリアリズムとは違ったところにある。

 なぜならば小説の作者にしろ読み手にしろ、僕という現実世界の存在はフィクションの世界にとって「それをフィクションだと認知している」時点で招かれざる客でしかないと了解しているからだ。

 そのため「フィクションがフィクションであることに自覚的である」メタフィクション的にならざるを得ないという構造になっている。

 それこそスクリーンに投影された外なる世界、「外世がいせ」と呼んで差し支えない。

 これは単に僕が空想癖だからもっと現実味のある(あるいは真実味を帯びた)話を物語ることが苦手であるというだけではなく、いちゲームユーザーならではの世界観(世界の見え方)と言えるだろう。

 RPGでもSTGでもいいのだが、ゲーム機を起動し、ソフトを読み込み、画面に映し出された異世界にコントローラで干渉する時、「私」は現世側と外世側の両方にいると言えるし、外世はあくまで架空の存在で、「私」の実存は常に現世側にあるとも言える。

 そしてゲームを中断するなりクリアするなりして終了したとき、ゲーム機の電源を切った後の外世はどうなるのだろう、と考えることはほとんど「私」の空想の領域であり、やはり外世はあくまで架空の存在で、「私」の実存は常に現世側にあるという生々しい感覚を強めることにもなる。

 、ゲームユーザーである「私」はソフトを入れ替えて異世界A、B、C……と次々に世界を渡り歩く。
 こうした乱暴な行為も「私」の実存する現世の揺るがぬ強固さを実感させ、逆に外世がいかに障子一枚で隔たれたような弱々しい存在であるかを強調させる。

 これはどんなメディアであろうとも、「私」が外世の一部に加わろう、「私」の頭の中に外世を映し出そうとした瞬間に起きるものだと考えている。

 つまり「外世」とは「非日常」の本質そのものにかなり近いからこそ、そのすべてを「現世」に持ち帰ることができない……と言いたいのだが、かなり回りくどい言い方になってしまっていることを自覚している。

 というよりも、「フィクションの中でいくら『これはフィクションではない』と叫んでも、むなしい。だってこれはフィクションだから」という考え方がもっとも近い。

 僕としては自分で書いた小説のリアリティを自分の体験によって担保する(=私小説の様式をとる)ことが多かった。
 そこではフィクションがフィクションであることに自覚的だからこそ「外世から現世に向かって問う」テーマ性には結びつかなかった。
 あるいは結びついたとて、一種の承認欲求めいた願望の発露でしかなかったと思う。

 こうして長々と理屈っぽく書いてきたが、要するに僕は自分の書く物語に自信がなく、怖気づいたような筋書きやキャラクターを出してしまうところに根本の問題がある。

 それはなぜなのかを考えてみると、現実も見ずに空想を語ることが不安なのだと思う。

 その現実とは社会問題ばかりではなく、自分自身の日常生活そのもののことでもある。

 今ここで掌編小説の連続投稿企画を立てたとて、一か月後には忘れたように別のものへ興味が移っているだろう……という諦めにも似た気持ち。

 公募の締切があるわけでもなく、ただなにかの焦りから始めたような構想はモチベーションになどならない。

 それこそ毎日必ず同じだけの時間をかけて、来たるべき未来のために積み立てていくような堅実さと弾性をもったが必要だ。

 今の自分に果たしてそれがあるかというと、そこまでの関心のなさに思わず首を横にひねってしまう。

 結局、小説が書けないアマチュア小説家のエッセイで自己啓発を試みるのは限界があった。

 今期はウルトラマンアークと天穂のサクナヒメを見ている間に過ぎていく可能性が高い。

 夏休みというモラトリアムをもらえなくなっても、何かを考える時間というものは──それが体感では一瞬であっても──なくならなかった。

 僕が何かを考えている限り、そこには何か空想の力が生まれ、あるいは大きく花開くこともあるだろう。

 今はまだ、一炊の夢が如し……だが。

(終)

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